料亭で話されていたことは、大改革の1つ「版籍奉還」についてだ。土地(版)と人民(籍)をすべて朝廷に返上してもらう。徳川慶喜に求めた「辞官納地」をすべての諸侯に求めようとしたのである。
当然、まともに行えば、反発は必至である。だが、明治新政府にとっては急務だった。というのも、戊辰戦争で勝利した新政府だが、戦ったのは諸藩の兵であり、みなすでに国元に帰っている。新政府自体はほとんど軍事力を持っておらず、財政力もない。
明治新政府を名ばかりの存在にしないためにも、「版籍奉還」は是が非でも断行せねばならなかったのである。
いつでも先を見据えて布石を打つ
版籍奉還を行うにあたって、大久保はまず長州藩の広沢と土佐藩の板垣に、その真意を打ち明けて、同意をとりつけた。
その後、佐賀藩の参与である副島種臣と大隈重信にも相談。賛同を得ると、1月20日に長州・薩摩・肥前・土佐の4藩主の連名で「版籍奉還の上表」が朝廷に提出される。上表には、次のように書かれていた。
「抑臣等居る所は、即ち天子の土、臣等牧する所は、即ち天子の民なり。安んそ私有すへけにや。今謹みて其版籍を収めて之を上る。願くは朝廷 其宜に処し、其与ふ可きは之を与へ、其奪ふべきはこれを奪ひ、凡列藩の封土、更に宜しく詔命を下し、これを改め定むへし」
私たちのいる場所は天子の土であり、私たちが養いおさめる人民は天子の民である――。つまり、「藩の領地と領民は本来、天皇のものであり、返上する」という意となる。また、上表では、藩の政治や軍事なども、
これは、いかにも大久保らしい巧みな方法である。もし、明治新政府から押しつけるかたちで領民と領地を返すように命じたならば、大きな反発が起きたに違いない。だからこそ、まずは4藩からやってみせた。これには他藩も追随せざるをえない。
さらに薩摩藩についていえば、大久保は大阪遷都を提案したころ、すでに藩主である島津忠義の名で10万石の返納を起草。「大名の領地は天皇から預けられているものなので、一部を返上する」と述べた。早い時点から、どの藩にも先駆けて版籍奉還への布石を打っておいたのである。
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