源頼朝「平家の完全討滅」望んでなかった意外事実 法皇に「東国を源氏、西国を平家」支配を提案
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。平家打倒へ突き進む源頼朝を支えたのが後白河法皇です。2人はどのように接近していったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。
「平家物語」に記されている誤り
古典『平家物語』には次のようなユニークな逸話が記載されている。
「さて、源頼朝は、鎌倉にいながら、征夷大将軍の院宣(法皇・上皇の命により、院庁役人が出す文書)を頂戴した。使者は、中原康定で、10月14日に関東に到着する。
頼朝が言うには『私は長年にわたり、天皇からおとがめを受けてきたが、今、武勇の誉が高まり、鎌倉にいながら、征夷将軍の院宣を賜ることができた。院宣をどうして私のような者の邸でお受けすることができようか。若宮の社にていただくことにしよう』といって、若宮に向われた。
八幡宮は鶴岡に建立されている。地形は石清水と同じ。回廊があり、楼門があり、道10余町の参道もある」(『平家物語』を筆者が現代語訳)
『平家物語』は、寿永2(1183)年10月に源頼朝が征夷大将軍に任じられたと書くが、もちろん、これは誤りである。頼朝が征夷大将軍に朝廷から任命されたのは、建久3(1192)年7月のことだ。
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