源頼朝「平家の完全討滅」望んでなかった意外事実 法皇に「東国を源氏、西国を平家」支配を提案

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『平家物語』には、この話に続き「院宣を誰が受け取るか」との評議があり、三浦義澄に決定したと記されている。三浦氏は相模国の御家人だ。

院宣の使者・中原康定が「院宣を受け取り申す人はいかなる人か、名乗られよ」と言うと、義澄は「三浦の荒次郎義澄」と返答。院宣は覧箱に入れてあり、それは頼朝へと差し上げられた。しばらくして、覧箱が返されて、康定が中を開けてみると「砂金百両」が入っていた。その後、康定には豪華な食事がすすめられ、馬3頭と白布千反が送られたという。

前述したように、寿永2年に頼朝が征夷大将軍に任命されたのは、虚構ではあるのだが、以上で記してきた『平家物語』の逸話がまったくのウソというわけではない。

寿永2年9月から10月ごろに、後白河法皇は鎌倉の頼朝と接触をはかっているが、その時の使者が中原泰定(康定、以下も康定と記す)なのだ。『玉葉』の同年10月1日の記事には、康定が両3日以前に帰京し、数多の引き出物を与えられたとある。

さらに同月13日には、康定が使者として再び関東へ赴くことが書いてある。これらのことから、後白河法皇と頼朝が頻繁に接触していたこと、その媒介に康定がいたこと、頼朝から多くの引き出物が与えられたことは事実と見てよいだろう。

10月9日には、頼朝の位階が復される(平治の乱以前の従五位下)。これにより、流人の立場から抜け出ることができたのだ。

源頼朝が後白河法皇に申請した「三カ条」

頼朝は、法皇に対し「三カ条」のことを申請したという(『玉葉』10月2日)。それは、押領されている寺社領を元のように本所に返付すること。押領されている王家や摂関家領も、元のように本所に返付すること。平家の家人であっても、降伏した者は斬罪を免除できることなどであった。この頼朝の申請に、木曽軍らの入京により混乱に陥っていた都の公家は喜悦することになる。

さて、頼朝の申請により「寿永二年十月宣旨」が発給される。内容は、東海・東山諸国の年貢、寺社領、王臣家領をもとのように、荘園領主などに回復させること。東海・東山道の荘園について、この命令に服しない者がいたならば、頼朝に伝達し、実力で従わせるというものである。

「十月宣旨」により、頼朝は東国の軍事・警察権、行政権までをも獲得、事実上「官軍」となり、義仲と対等の立場にたつことができた。とは言え、頼朝が実際に支配していたのは南関東の数カ国に過ぎず、真の東国支配権の獲得はまだ遠いといわざるをえなかった。

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