源頼朝「平家の完全討滅」望んでなかった意外事実 法皇に「東国を源氏、西国を平家」支配を提案

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頼朝は、先の宣旨に北陸道も加えてほしかったが、朝廷は北陸を本拠とする義仲を恐れ、それをしなかった。宣旨の内容に、頼朝は怒り、美濃国以東を侵略するとまで言い放ったという(『玉葉』)。頼朝としては、北陸道を加えてもらえたら、自身が義仲に優位すると考えたのだろう。

しかし、それに失敗した頼朝は、早急に義仲を討つ決心を固めたと思われる。一方、後白河法皇は、頼朝に義仲と和平することをたびたび伝えていたようだ(『玉葉』)。 

だが、歴史の歯車は、頼朝と義仲の対立へと旋回していくことになる。それにしても、頼朝は平家の与党に対しては「甘い」態度をとっている。3カ条の申請で「平家の家人であっても、降伏した者は斬罪を免除できる」と願ったのもその証であろう。

「東国を源氏、西国を平家に」と主張した源頼朝

頼朝は治承5(1181)年7月に、後白河法皇に和平提案を行い、平氏・源氏を並立させて、東国を源氏、西国を平家に支配させてはどうかと主張したのである。

このことからも、当初、頼朝は必ずしも平家を完全討滅することを考えていなかったと言えよう。頼朝の和平提案は、後白河法皇から平宗盛(平清盛の三男)に示されたが、宗盛は、亡父・清盛の「我が子孫、一人といえども生き残らば、骸を頼朝の前にさらすべし」との遺言を盾に拒否する。法皇は、宗盛による源氏追討にも反対の姿勢を示していた。

ところが、宗盛はその意向を無視して、追討戦を継続した。2度にわたる意向の無視を、法皇が快く思わなかったことはいうまでもない。法皇は宗盛に対しても不信感をにじませていたし、新たに入京した義仲にも皇位継承への介入から不快感を持っていた。

後白河法皇を救援するために挙兵し、時に和平提案を行ってきた頼朝に法皇がより親近感を抱いたとしても、不思議ではない。義仲入京の際に、頼朝を勲功第一とした法皇の心中には、頼朝への親近感があったのだ。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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