親ロシア派と徹底的に戦った幕府官僚「川路聖謨」 「儒学の伝統」こそが日本人を支えている理由
しかし、古川先生の仰るとおり、大事なのは「国民意識の創出」に主眼があり、かつそれが効果的に行われたということですね。藤田東湖がアジテーションで過激化させたことと、会沢正志斎がそれを止めようとしたことについては、もっと注目されても良いでしょう。そうした意味で「武士の土着化」と「国民の武士化」という日本思想の主線が生き、日本のナショナリズムが理解されてくると思います。
ナショナリズムをちゃんと語ろう
古川:前回、「プロレスとしてのナショナリズム」というたとえをしましたが、ナショナリズムの難しいところは、知識人の側からすると、国民を「煽る」、あるいはもっと強くいえば「騙す」、という面が出てきてしまうところだと思うのです。
ナショナルな物語は、たしかにフィクションなのですが、それは文字どおりのフィクションではなく、「あたかも真実であるかのようなフィクション」でなければ、意味がありません。だから、知識人の側はむしろ、「これは真実です」という語り方をするわけです。プロレスだって、当のレスラーたち自身は、「これはショーです」なんて当然いわないわけです。
そうすると、プロレスを本気の殴り合いだと信じ込んで熱狂する子どものように、ナショナルな物語を文字どおりの真実として信じ込んで熱狂してしまう国民も出てきてしまいます。その結果、知識人の側も想定していなかったような暴走も起こってしまう。これが「過激」とか「狭隘」とかといわれるナショナリズムの実相ではないでしょうか。
大場:当時も水戸学は攘夷で打ち払うかどうか、ということばかりクローズアップされましたね。さらに共同体や社会的立場を超えて天皇のもとに結集するという尊皇攘夷を東湖が煽りました。
一方で、会沢は、神話によって寓意的に示されている、家から同心円状の社会、国家という役割分担が果たされる有機的なつながりの中で、各々が存在価値を見いだして、自己実現することが国体だと唱えたのです。
そして、それを守るために、西欧の世界観との違いを明らかにした上で、日本の知的レベルは十分に高いから、勤勉さで吸収して、あくまで道具に過ぎない西洋流の技術を吸収し、理想社会を世界に打ち立てることが尊皇攘夷だとしました。思想的な勝利、具体的には外見が西欧的になろうが、日本的精神が守られていれば良い、というラインを示したんですね。
ただ、東湖らのアジテーションによって、それを飛び越えて、とにかくやっちまえという流れになった。危機が訪れるたびに変な方に振れてしまう。思想が大衆化していったことが大きいかもしれないですね。
古川:とりわけ、国民意識を創出・発揚しようとするさいには、「煽る」「騙す」といった性格が強くならざるをえません。会沢の『新論』も実際にはかなり煽っていると思いますが、それはどちらかといえば「プロレス」的な煽りで、だからこそ、それを飛び越えて「ガチ」になってしまうような流れに対しては、むしろ警戒したのかもしれませんね。
そう考えると、われわれ自身も知識人のはしくれとして、誰に向けて、何を、どのように、語っていくべきなのか、あらためて考えさせられます。ぜひ今後も、こうした対話を続けていきたいですね。
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