親ロシア派と徹底的に戦った幕府官僚「川路聖謨」 「儒学の伝統」こそが日本人を支えている理由

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そもそも何かが起こったとき、「自分(日本)にとってそれは何の意味があるのか」という中心軸がない議論には何の意味もなく、ひたすら提示される向こう基準のルールに右往左往するだけです。横井や橋本の失敗はまさに会沢が一刀両断した態度に理由がありますね。

儒学という「建設の思想」

古川:なるほど。確固たる思想的なバックボーンがあるからこそ実践に強いというのは、一般論としてもそのとおりでしょうね。

時代はずいぶん下りますが、いわゆる大正教養主義に対する唐木順三の批判を連想しました。唐木は、明治の「修養」と大正の「教養」を対比して、後者を「型の喪失」として批判しました。漢学を中心とする伝統的な「型」を失った大正世代の知識人は、1つの古典に習熟することをせず、古今東西のあらゆる思想や哲学、宗教の本を好き勝手に読み、それを「教養」と称するようになった、と。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『看護学生と考える教育学――「生きる意味」の援助のために』(ナカニシヤ出版、2016年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)、共著に『道徳教育はいかにあるべきか――歴史・理論・実践』(ミネルヴァ書房、2021年)などがある(写真:古川雄嗣)

この唐木の批判は必ずしも当たらないところもあると思いますが、大事だと思うのは、この伝統から切り離された大正世代の「教養」が、「個性の発展」など、社会的に孤立した個人の内面にばかり向かって、現実の社会問題にはあまり向かわなかったという指摘です。

私がもともと専門にしていた哲学者の九鬼周造もその世代ですが、彼なんかも「政治や軍事のことは脇に置いておこう。それよりも私は自分の魂とその根底にある日本の精神文化について語りたい」とかと言って、詩の押韻論などの歌論に進んでいったところがあります。

それを否定するつもりはありませんが、私はかねて、日本文化や日本精神を論じる人が、「無」や「自然」といった脱俗的な観念のほうに向かいがちであることに違和感があります。そこからは、前回お話ししたような共和主義的な精神は出てきませんよね。人間が主体的に国家や社会を建設するという思想が。それはどうなんだろうと思うのです。

大場:突き詰めるとそれは、日本には何もないという事実をしなやかに受け止めて、世の有り様をありのままにしみじみと……などと達観することが「やまとごころ」で、義理と人情の世界を、文学や芸能で表現する、といった国学的態度と言えるでしょう。

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