ロシアによるウクライナ侵攻に伴う混迷は、深まる一方だ。グローバル化が進んでいたはずの世界はかつての冷戦期さながらに色分けされ、互いの「不正義」を糾弾し合う。そんな中、欧米諸国と歩調を合わせるばかりの日本の対処方針は、過去の有事で繰り返された泥縄そのもので、戦後70年を超えても、国家として主体性を持つ「大人」になり切れていないと言うほかない。こうした現状を打破するには、どのような思考が必要か―。『
大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す』著者の古川雄嗣氏と、中国思想・日本思想研究者の大場一央氏がオンラインで対談した。両氏の熱い議論の2回目(最終回)をお届けする。(前回は
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「悪魔」にたぶらかされた知識人
古川:前回、「歴史学」と「歴史意識」の問題が話題になりました。歴史学が客観的な歴史の諸事実にこだわるあまり、あらゆる歴史の「物語」をフィクションにすぎないとして解体してしまい、その結果、人々が自己の存在や生き方を歴史的に考えようとする「歴史意識」を破壊してしまっているのではないか、という話でした。
同じことが、思想史研究についてもいえると思います。思想史研究も歴史学ですから、やっていることは基本的に、誰のどのテクストはいつどこで書かれたもので……といった客観的な事実を明らかにすることです。けれども、思想史研究がそれだけになってしまうと、そもそも過去の偉大な思想から、いまを生きるわれわれ自身が何かを学ぶという姿勢そのものが失われてしまいます。
そういう問題を考えるとき、いつも頭に浮かぶ文章があります。『ナルニア国物語』で有名なイギリスのキリスト教文学者、C・S・ルイスの『悪魔の手紙』という作品で、これは悪魔がどのような策略を用いて人間の魂を堕落させるかを、悪魔自身を語り手にしてみごとに描き出したものです
そのなかで、悪魔はこんなこともいって言っているんですね。
「古文書を読むのは学問のある者だけだ。しかもそうした知識人たちをわれわれはじつにうまく料理してきた。だから現代の知識人は、古文書を呼んでもそれによっていささかも知恵を得そうにない。われわれは歴史的観点というものを彼らのうちに植えつけることによって、これに成功した。歴史的観点に立つ学者は、昔の思想家が書いたものを示されるとき、さまざまな問題点を指摘するが、唯一の例外として彼が問わないのは、その著書が真実を語っているかどうかということなのだ。その思想家は誰から影響を受けたか、彼が書いていることは彼のほかの著書のうちの言説とどの程度に矛盾がないか、それが彼の学問的発展の、また思想史一般のどの段階に属しているか、それは後世の学者たちにどういった影響をおよぼしたのか、どのようにしばしば誤解されたか(とくに彼自身の同僚によって)、過去十年間のそれにたいする批判の一般的動向はどのようなものだったか、「現在の問題」はどのような性質のものか――そういった点ばかりが取り上げられているのだから。というわけで、この思想家が書いていることは有益な知識を与えてくれるのではないかと考えたり、彼が述べていることが自分の思想を、あるいは行動を修正する根拠となりうるのではと予想したりすること――そうしたことは、愚にもつかぬ、おめでたい態度として斥けられるだろう」(中村妙子訳、平凡社ライブラリー)
大場:ニヤリとする箇所ばかりですね。評論家の故・西部邁氏が『虚無の構造』などで描いていた相対主義のニヒリズムの姿は、この指摘を鏡で正確に映し出したようです。