さて、欧米においては、PhD(博士号)の取得は、よりよい職に就いたり、社会を牽引する人材になるための登竜門という認識がある。日本での博士号のイメージとは少々異なるのだ。
日本の大学の研究レベルは分野にもよるが、世界的にもたいへん高いレベルにあり、誇らしいことにノーベル賞などの受賞者も多数存在する。しかし、修士、博士課程と進むにつれ「専門」という言葉の「象牙の塔」にこもりがちで、隣の研究室が何をやっているかさえ知らないというのはよくある話だ。学問の道を突き進むのも、たいへん価値のあることだが、一方で、大学や博士号取得者が「知」の源泉として社会に溶け込んでいくには、在学中に自身の「専門」を日々磨きながらも社会の中での自己の役割を再認識し、学んだものを社会に還元していくという意識を育む必要があるのかもしれない。
“グローバル”よりも“ボーダレス”な挑戦
日本の産業界も教育界も、今や「グローバル」と名のつくもののオンパレードであるが、今、私の指針となる言葉は「グローバル」ではなく「ボーダレス」である(こういう言葉遊びの議論も少し滑稽だが……)。
ここで言うボーダレスは「国境という概念に意味はない」というような政治思想的な意味ではなく、目的に向かって挑戦する際に、あらゆる境界を意識しないという意味である。必要もないのに無理してグローバルになることはない。目的に向かって、あらゆる手段を駆使し邁進した結果、振り返って見ると結果的に「グローバル」に見えたり、他者から「グローバルだね~」と言われるものなのだと思う。
このボーダレスな感覚を初めて感じたのはケンブリッジではなく、実は慶應時代の恩師、齊藤英治先生(現東北大学教授)との出会いの中だった。自由奔放な大学生活を送っていた頃、「君みたいな人間がどのような人生を歩んで行くか見てみたくて」という先生の意味深な言葉を受け、私は一番人気の研究室であった齊藤研究室の2期生として拾われた。
研究室では、毎週研究成果に対する議論が行われていた。先生の物理学の見識の深さと広さに、毎回、驚愕していたことは今でも鮮明に覚えている。ある日、同期のひとりが「このままこの研究を進めていくとわれわれの分野(スピントロニクスという分野だ)から逸脱したものとなってしまう」と言い出した。
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