過去を振り返れば、慶喜は、元薩摩藩主の島津斉彬が積極的に将軍に推していた人物だ。諸外国からの脅威にさらされるなか、聡明な慶喜こそが国家のリーダーたる器だと斉彬は信じて、西郷とともに行動してきた。大政奉還後のリーダーシップを見ると、少なくとも外交面においては、慶喜は斉彬の期待に応えうる逸材だったと言えそうだ。
追い詰めていたはずが、気づけば追い詰められている。薩摩藩の大久保利通は、慶喜に立ち向かうたびに、そんな煮え湯を飲まされており、今回もまた慶喜のペースに持ち込まれようとしていた。
堪忍袋の緒が切れそうな時期が慶喜にもあった
慶喜の立ち回りは見事なものだが、そこに葛藤がなかったわけではない。実のところ、さすがの慶喜も堪忍袋の緒が切れそうな時期があった。
クーデターにより、大阪城に引っ込んだあと、慶喜は薩摩藩を打ち倒そうと水面下では動いていた。薩摩藩の行いを激しく批判した書を、大目付の戸川安愛に持たせて、上洛させている。王政復古のクーデターが行われた10日後、慶応3(1867)年12月19日のことである。
「王政復古のクーデターは、1つか2つの藩が幼い天皇を担いで、私心を成し遂げようとする仕組んだ謀略である」
これが薩摩藩にまで届いていれば、まさしく小躍りしたに違いない。まさに、こうして慶喜がリングに上がってくるのを、大久保も西郷も待ち望んでいたのだ。そうすれば、武力で打ち倒す口実ができる。
だが、この薩摩藩を弾劾する書を、意外な人物が握りつぶしてしまう。それは岩倉具視だ。総裁の織仁親王に上程される前に、岩倉はそれを阻止。提出を中止させている。
なぜ、倒幕派のはずの岩倉が、そんな動きを見せたのか。このころの岩倉は、慶喜の側近である永井尚志らと話し合いながら、松平慶永と後藤象二郎とともに、次のような方針を固めつつあった。
「慶喜には、内大臣の官位を辞退してもらうかわりに、議定に就任してもらい、新政府に参加してもらう。領地の問題は改めて公の場でまた議論することにしよう」
岩倉のアウトローぶりは、公家としては突出している。しかし、公家らしい保守的な面も随所に顔を出す。言ってしまえば、岩倉は大久保や西郷ほど、開き直れてはいなかった。
だから慶喜への同情論の高まりを受けて、岩倉は腰がひけたのだ。慶喜を新政権にうまく取り込むために、薩摩と敵対するような動きを岩倉は封じた。岩倉の慶喜をかばうような立ち回りは、大久保や西郷にとっても誤算だったに違いない。
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