「天皇の治める国家が、すべて瓦解し土崩してしまう。変革もすべて水の泡となり、絵にかいた餅となる」
大久保は珍しく、そんな悲痛ともいえる見通しを述べている。明治天皇を神輿に乗せて、政権はすでに掌握した。それにもかかわらず、まるで何事もなかったかのように黙殺されようとしていた。
大久保が抗議の声を上げようとしても、周囲を見渡すと不穏な空気が漂っている。これまでのように慶喜に逃げられてはたまらないと「領地を返上すべし」と強硬な態度に出たことから、薩摩藩への反感が高まっていたからだ。
例えば、柳河藩士の立花壱岐はクーデターに理解を示した1人だが、それでも日記ではこんなふうに記している。
「薩摩のクーデターは時勢を踏まえると、起こるべくして起きたものだ。ただし、道義にかなっておらず、公正でない点が残念に思う」
ましてや、薩摩藩に反感を持つ諸藩からすれば、その横暴さは目に余るものだったに違いない。朝廷や諸藩士の声を拾った「風説」が鳥取藩の『慶応丁卯筆記』に収載されている。その記録からも当時の空気がよく伝わってくる。
「京都では、度が過ぎている事件が2つ起きた。1つは慶喜公が穏やかすぎること。2つ目に薩摩人が乱暴すぎること」
しまいには、薩摩と関係が深いイギリス側からも、こんな声が上がる始末だ。薩摩藩の寺島宗則から大久保に伝えられている。
「幕領のみを削り、ほかの大名領を差し出さないのは、外国人からすれば妥当だとは思えません」
イギリスとも良好な関係性を築いていた慶喜
大久保は頭を抱えたことだろう。まずは、広大な領地を持つ徳川家の勢いをそがなければ、根底からの改革を実現することはできない。しかし、国内ですら反発の声が上がるなか、対外的にクーデターへの理解を得ることは難しかった。ここで注目すべきは、慶喜がイギリスからもこれほど同情を勝ち取るほど、良好な関係性を築いていたということだ。
江戸でも京でも「外国人を打ち払え」と攘夷の嵐が吹き荒れるころから、慶喜自身はもとから開国思想を持っていた。ただ、父の斉昭が強烈な攘夷主義者で、かつ孝明天皇も外国人嫌いだったことから、慶喜は自分の考えを表明することは避けてきた。徳川家と朝廷の両方の血を引くだけに、どの勢力からも利用されやすい慶喜は、言動には慎重を期す必要があった。
だからこそ、しがらみから解き放たれた今、慶喜はむしろ諸外国との関係性をテコにして、薩摩や長州が主導権を握らんとする国内政治を、ひっくり返そうとしていたのである。
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