平家が「東大寺も興福寺も焼失」の暴挙に出た理由 なぜわざわざ火をつけるまでにいたったのか

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東大寺の大仏殿は1180年、1567年の2度焼失している(写真:HAYABUSA/PIXTA)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やフジテレビ系列のアニメ『平家物語』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。源平合戦の中では、平家が東大寺や興福寺などを焼き討ちにする大事件も起こっています。なぜそんなことが起こったのか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

治承4(1180)年8月、源頼朝は挙兵し、各地の源氏も蜂起した。石橋山の戦いでは、大敗北を喫し、安房国(千葉県南部)にまで逃れた頼朝だが、千葉の豪族(上総広常や千葉常胤)の加勢を得て、盛り返していく。

そして鎌倉に入ったうえで、ついには駿河国まで出張ってきていた追討軍(大将は平維盛=平重盛の子。平清盛の孫)を迎え撃つまでになるのである。1180年10月の富士川の戦いだ。平家方は、飛び立った水鳥の羽音に驚き、逃走したとのエピソードで有名な合戦である。そのような逸話が残されているので、平家方は軟弱で、すぐに敗れたようなイメージがあるかもしれないが、決してそうではない。

富士川の戦いで敗退した平家であったが、その他の戦いでは負けてはいなかった。例えば、近江で蜂起した近江源氏らに対して軍勢を派遣して急襲、敗退させている。治承4(1180)年12月13日の戦闘では、山本義経(近江源氏)らを敗走させたばかりか、敵の首二百を討ち取ったという。

近江、伊賀、伊勢の反乱軍を追い詰める

さらに平知盛(清盛の四男)、平資盛(清盛の孫)、藤原清綱(伊勢守)をそれぞれ、近江、伊賀、伊勢に遣わし、反乱軍を追い詰めていく。12月中には、近江は平定される。その一方で、延暦寺の堂衆(もともとは雑役に従事していた者で、武力を持つようになって僧兵化した)と園城寺の悪僧が結び、園城寺に立てこもったとの報もあったため、平盛俊(平清盛の側近、平盛国の子)の郎党が12月10日に園城寺に向かう。

『平家物語』には、平家が『都では「高倉宮(以仁王)が園城寺に入られたとき、奈良、興福寺の衆徒はこれに同調し、さらには宮をお迎えに参ろうとした。これは、朝敵の所業である。よって、興福寺も三井寺も攻めるべきだ」という方針が立てられるや、興福寺の衆徒は蜂起したのである』(筆者が現代語訳)とある。

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