平家が「東大寺も興福寺も焼失」の暴挙に出た理由 なぜわざわざ火をつけるまでにいたったのか

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平家軍は、軍勢(『平家物語』によると4万。実際は数千の軍勢か)を二手に分け、この2つの坂に押し寄せ、鬨の声をあげた。

大衆は徒歩で戦っていたが、平家軍は馬で駆け回り、敵を追いかけ回し、矢で射殺していったので、大衆は劣勢となり、2つの坂に作られた「城郭」は夜に破られた。

夜に入り、辺りも暗くなったので、平重衡は般若寺(奈良市北部にある寺院)の門前にて「火をつけよ」と命じる。

播磨国の二郎大夫友方という者が、あたりの民家に火をつけたという。12月28日の夜は、風が激しく、その火は瞬く間に燃え広がり、般若寺、興福寺、東大寺大仏殿を焼くのである。『山槐記』には「官軍が火を所々の民家に放つ。その間、東大寺、興福寺が灰塵に帰す。官軍の仕業か衆徒の行為かははっきりとしない」と記されている。

寺院を攻撃し焼くといったことは、この時代、度々見られるし、今回もはじめからそのつもりだったのかもしれないが、まさか、興福寺や東大寺大仏殿まで炎上してしまったことは想定外だったろう。

東大寺の大仏は「御頭は焼け落ちて、大地に転がり、御身体は溶けて山のようになってしまった」(『平家物語』)という。僧侶や稚児、女性たちは大仏殿に逃げ込んでいたが、猛火によって焼け死んだ。その時の人々の絶叫は「地獄の炎で責め苦を受ける罪人も、これ以上ではない」(同)というものすごいものであった。

清盛はどのような反応だったのか?

『平家物語』の「奈良炎上」の箇所を読んでいると、『信長公記』に描かれた織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを筆者は思い出す。

『信長公記』は比叡山焼き討ちを「信長様は比叡山に押し寄せ、根本中堂・山王21社をはじめ、霊仏・霊社・経巻など一堂一宇、残らず焼き払った。雲霞のごとく煙は舞い上がり、瞬く間に灰となってしまったのは、とても痛ましいことだ。山下の老若男女は、あわてふためいて、右往左往して、逃げ惑い取るものも、取りあえず、皆、裸足で社内に逃げ込む。それを追うようにして、兵が四方から鬨の声をあげながら、攻めたてる。僧俗・児童・学僧・上人すべて捕えてきて、首をはね、信長様にお目にかけた」と記している。

さて、平重衡は悪僧の首をとり、12月29日に京に凱旋する。清盛は、この戦の勝利を喜んだが、上皇や貴族たちは「悪僧を滅ぼすのはわかるが、寺院を破壊することがあろうか」と言い、眉をひそめたと言われる。『延慶本』では、清盛は勝利を喜んだものの多くの寺院が焼亡したことに、心中、驚いたという。

後者のほうが清盛の受け止め方として正しいように思う。清盛としても、そこまで広範囲に寺院を焼き尽くすことになるとは想像していなかったろうし、そうなってしまったことを心中、無念に感じていただろう。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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