平家が「東大寺も興福寺も焼失」の暴挙に出た理由 なぜわざわざ火をつけるまでにいたったのか

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後白河法皇の第3皇子・以仁王は、平家追討の令旨(皇族の命令書)を諸国の源氏に向けて発したが、すぐに頼りにしようとしたのが、京都からも近い、興福寺や三井寺などの寺院であった。反平家の動きを見せるこれらの寺院の動きに対し、以前より、平家が苦々しい思いでいたことがうかがえる。

さて、12月10日に園城寺に向かった平盛俊は、翌日には攻撃を開始。房舎を焼き払うなどして、堂衆を敗走に追い込む。12月になると、南都興福寺の大衆(衆徒)が蜂起し、平家がこれを討伐することになるのだが、『平家物語』にはそれにまつわる次のような逸話が載っている。

興福寺では、大きな毬杖(ぎっちょう。木製の杖で木製の鞠を打ち込む、ホッケーのような遊び)の玉を作り、これに「平相国の頭」(平清盛の頭)と名付け、この玉を「打て」「踏め」とさんざんにいたぶっていたというのだ。そのことを清盛が伝え聞き、不快に思い、興福寺の乱暴を鎮めようと、軍勢を派遣したという。

そして『平家物語』には、「外に漏れやすい言葉は災いを招くもとだ。行いを慎まないのは、敗北の要因である」と評すばかりか「清盛は、恐れ多くも天皇の外祖父。それをこのように申す奈良の大衆の行いは、天魔の所為だ」(ちなみに『延慶本(平家物語にはさまざまな種類があり、その1つ)』にはこのような評論文は見られない)とある。

『平家物語』には清盛が悪人として描かれている印象があるかもしれないが、決してそうではない。平家を弁護する記述もあるのだ。

興福寺の大衆の振る舞いに清盛が激怒

清盛は、備中国の瀬尾兼康を検非違使に任じ、500騎の軍勢で奈良に遣わす。瀬尾らは「衆徒が乱暴しようとも、お前たちは決して同じように振る舞ってはいけない。鎧・冑も身に着けるな。弓矢も持ってはならぬ」と言い含められて派遣されたが、そうとは知らぬ興福寺の大衆は、瀬尾の軍勢のなかの60余人を捕え、首を切り、猿沢の池の辺りに並べたという。

これに激怒した清盛は、平重衡(清盛の五男)を大将軍とし、南都に下向させる。『平家物語』によって、その戦いの経過を見てみよう。

大衆側は、奈良坂、般若坂の2カ所の道に堀を作り、敵の矢を防ぐために楯を垣のように並べ、逆茂木(先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べて地面に固定。敵を近寄らせないようにした障害物のこと)をめぐらして待ち構えていた。 

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