「国のために死ねるか」西欧近代社会の残酷な本質 国民国家の漂流と「中世化」現象が示唆すること
近代システムの限界
水野:木村さんの著書『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか』(ミネルヴァ書房)を拝読しました。近代とは何か、国家とは何か、グローバリゼーションとは、さらには人類の文明とは何かについて、重厚な議論が展開されています。
木村:新型コロナが変異を重ねて、世界でなお猛威をふるっていますが、グローバリゼーションの急進展なくして、このようなパンデミックがもらされることはなかった。「ウィズ・コロナ」時代を、グローバリゼーションとは何かということを考える、またとない機会にしなければならないと思います。
身の程知らずの大部の本を書きましたが、私たち人類は狩猟・採集時代から、1万年前の農耕・牧畜革命、近代の産業革命を経て、まったく新たな文明史的とも言える挑戦を受けているのではないでしょうか。
水野先生が「資本主義の終焉」を論じられていることもそうですが、AIや生命工学(バイオテクノロジー)の目覚ましい発展のもとで「超人類(トランス・ヒューマン)」が視界に入ってくる。つまり道徳的・倫理的な意味を見失いがちな「神なき時代」に、人間はいつまでホモ・サピエンスとして生きていけるのか、ということですね。
そのことを考えるうえでも、理性の光と進歩主義への信仰が時代精神となっていった西洋近代を、総体的に、ホリスティックな視点で振り返る必要があるのではないか。それが私の問題意識でした。「近代の超克」と言えば、ちょっと時代がかってしまいますが。
水野:私の今回の著書『次なる100年』(東洋経済新報社)で古代・中世・近代を通じてヨーロッパ文明、その相続人であるアメリカ文明を「蒐集」という一つの概念でみたら何がいえるだろうか、を考えてみようと思いました。その答えは、スーザン・ソンタグが『火山に恋して』でコレクターにはこれで十分だという考えはなくて、コレクションは「過剰・飽満・過多」に必ず行き着くといっています。
マルクスは資本の無限性を指摘していますが、ヨーロッパ文明は古代から蒐集は無限に行うという考え方がありました。狭いヨーロッパ大陸、本当はユーラシア大陸のヨーロッパ半島にすぎないところに多くの民族が住んでいましたから、自国の秩序安定のために、より多くの土地を蒐集するという考えが当初からあったと思います。しかし、多くの国がそれを実行しようとして極限(臨界点)に達したときに社会システムが崩壊していきました。ゼロ金利になっても資本を無限に蒐集しようとする21世紀も、過去と同様に臨界点に達していると思います。
木村さんのご著書を拝読して、ルソーがこんなことを言っていたということをはじめて知りました。驚くことに、ルソーは「祖国のために死ねるか」と言っていて、ヨーロッパでは、十字軍のために死ぬのは殉教者だと言われ、次の絶対王政期には国王のために死ねる者が尊いとされた。それが人権思想で知られるルソーにもきちんと引き継がれていて、ホッブズとかロックの辺りで断絶しているのかと思っていたら、国民国家の時代になっても連続していた。