「国のために死ねるか」西欧近代社会の残酷な本質 国民国家の漂流と「中世化」現象が示唆すること
水野:近代文明というのは、進歩=プログレスと重なっていて、もともとの語源は、17世紀までは単なる空間移動を表していたそうですね。それをフランシス・ベーコンが時間的概念に切り替えて、プログレスは進歩であるという発展段階説となりました。その国の発展段階によって文明国と野蛮国ができて、その後、植民地主義が正当化されていくことになります。
ですから、近代文明というのは、木村さんが言われたように、シビライゼーションではなくて、むしろ、文明が野蛮化していると捉えることができると思います。今回の著作でトルストイの『ホルストメール』を取り上げましたが、彼は「わたしのもの」に固執する人は馬より劣ると主張しています。私的所有権とはいったい何だろうと考えさせられました。
確かに私的所有権が認められたことで、資本主義は飛躍的に生活水準を向上させたのですが、人間の精神はアダム・スミスのいう「共感」が薄れてきたと思います。
その証拠に、サプライチェーンが国境を飛び越えて延びるのと比例して、児童労働がサハラ砂漠以南の地域で2012年から増加に転じています。経営者や資本家は遠くで起きていることに「共感」が及ばないようです。人間の精神は進歩しているかどうか疑わしいものです。
木村:文明は正義か悪か、といったデジタル的な決めつけは妥当ではないと思いますが、おっしゃるように、私たちはいまや「文明こそが野蛮なのではないか」という逆説的な視点を持つ必要があるように感じます。
シェイクスピアが警鐘した金融
水野:冒頭でウイルスの話が出ましたけれども、著書『次なる100年』では、ウイルスは「マクベス」の魔女ではないかと。
木村:あの3人の魔女ですね。
水野:「マクベス」で、3人の魔女が「汚い空気の中を飛んでいこう」と言っている場面があって、それでマクベスは最後のほうで后がお亡くなりになる。現代に置き換えて、3人の魔女は近代もお亡くなりになりましたと言っているのだと『次なる100年』では理解しました。
演出家で劇団SCOTを主催する鈴木忠志さんの代表作の1つ「世界の果てからこんにちは」で老人ホームの経営者である院長はマクベスのこのせりふを「日本がお亡くなりになりました」と言い換え、さらに続けて「アメリカの灯もついていない」と言います。「灯」を金利に置き換えればいいと思ったのです。
「灯」は希望だと理解すれば、経済的には金利がつく社会とは投資を通じて今我慢すれば「今日よりも明日はもっとよくなる」(=経済成長)ということを信じることができる社会のことをいいます。「灯」が消えたということをゼロ金利だと理解すれば、成長が消えて、近代がお亡くなりに、そして資本主義もお亡くなりになったと理解すればいいと思いました。
木村:とても面白い比喩でしたよ。
水野:シェイクスピアの先見性に感服するのは、アメリカのヴァージニア工科大学で銃の乱射事件がありましたが、韓国系の犯人は「唾を吐かれた気持ちがわかるか」というビデオメッセージを残していて、「あんたたちはベンツを買っても満足しない、何を買っても満足しないではないか」と言っているんですね。アメリカ社会に夢を持ってきたけれども、自分はマイノリティーで疎外されてきた。それで「唾を吐かれた気持ちがわかるか」と。
これはシェイクスピアの『ヴェニスの商人』で、主人公シャイロックが唾を吐かれて、それで肉1ポンド契約の復讐という話と重なります。つまり、現代社会に生じている問題が、シェイクスピアが活躍した1600年前後にすでに生じていたことになる。つまり、十字軍のときからユダヤ人たちは疎外されていて、排除の問題が生じていたのです。