「国のために死ねるか」西欧近代社会の残酷な本質 国民国家の漂流と「中世化」現象が示唆すること
木村:ルソーは複雑骨折の思想家でしたよ。フランス革命の理論的支柱として、近代民主主義の祖でもあり、血なまぐさい全体主義の祭司でもありました。
中世から近代への移行というのは、けっして一直線ではありませんね。ガリレオも、ケプラーも、ニュートンも、占星術や錬金術にのめりこんだり、魔女裁判にかかわったり。片足を中世に突っ込んだまま、科学の扉を開いたのですね。歴史家によって見方はさまざまでしょうが、私は16世紀の初めに、近代は黎明期を迎えたのだと感じています。
それを象徴する人物がイタリア・ルネサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチですね。どうして高い山の山頂に二枚貝の化石が完全な姿で発見されるのか、地殻変動による海底の隆起を想定しないと、旧約聖書の創世記に出てくるような「ノアの洪水の40日間」の物語では説明がつかないと考えました。100歳から7カ月の胎児まで30体近くの遺体を解剖し、750枚ほどの精密な解剖図を残しています。ダ・ヴィンチに科学精神は始まると言って差し支えないでしょう。
もう1つは、カトリックの僕(しもべ)でしかなかったかび臭いスコラ神学が解体され、赤裸々な人間像をよみがえらせたことですね。ダ・ヴィンチの『モナリザ』とほぼ同じころに描かれたラファエロ・サンティの『草原の聖母像』のマリアは、抹香臭い中世の宗教画とは違う、わが子イエスに慈愛の目を注ぐ母親がいる。
1517年にルターによる宗教改革がドイツで起こりますが、その背景には、猛威を振るうペストの前に、王侯貴族も聖職者も、農夫も幼子も無力で、ばたばたと死んでいき、教会権威が崩れていった事情があります。それが宗教改革に向かい、近代がうっすらと明けていくわけですね。
フィレンツェ共和国のニッコロ・マキャベリが『君主論』を書き、政治を道徳や宗教から分離して、近代的な政治力学への道を開いたのも16世紀前半のことでした。
利子の容認という大転換
水野:経済の視点からみますと、近代の萌芽は13世紀に利息のつくお金(カネ)という意味での資本という言葉が使われるようになりました。1215年にキリスト教会は条件付きでありますが、利子を容認しました。
その後、スコラ哲学者のピエール・ド・ジャン・オリーヴィ(1248-1298)が従来の「貨幣は石であるから利子を生まない」というアリストテレスの考え方から、「貨幣は種子である」ので、利子・利潤を事前に契約に織り込んでもいいと主張し、それが教会にも支持されていきました。いわば、自然科学のコペルニクスに匹敵することを経済面でオリーヴィが行いました。パラダイム転換が起きたことになります。
儲けることが是認されたわけですから、おそらく人々は創意工夫に精をだし、自己心が芽生えてきたと思います。技術面でいえば、ちょうど同じ時期に「機械時計」が使われるようになって、時間の合理的管理も行われるようになりました。
科学の進歩とかいうものがどんどん自明の理としてわれわれの世界をつくっていき、そして科学の世紀を迎えて、産業革命を通じて、消費社会を迎え現代へとつながっていくわけですが、現代は技術がはたしてわれわれの生活を良くするのかという疑問が生じて、未来をどう見通せばよいのか、みな答えを求めています。
木村:ええ。そうだと思います。学生時代に読んだアドルノ/ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』は、「魔術からの解放」をもたらした近代の輝かしい理性が、なぜファシズムという「一種の新しい野蛮状態」に陥ってしまうのか、と問いました。私たちがよりどころにしてきた理性は、なんとももろく、逆流しかねない。アメリカのトランプ現象でも、そのことを実感したはずです。