以前「センバツ『夏とは違う甲子園』を目指した96年」で書いたように、センバツ高校野球は、夏の高校野球選手権大会のアンチテーゼとして始まった。夏の大会は1915年に全国中等学校優勝野球大会として始まったが、ブームになるとともに私学や商業学校など新興の学校が優秀な選手を集めて全国大会に出るようになり、地方の名門中等学校は勝ち抜くことが難しくなった。
センバツの主催者の毎日新聞は、夏の朝日新聞への対抗意識もあって、夏とは違う選考方法で学校を選ぶこととした。野球が強くても「品格」に欠けたり、トラブルを起こすような学校は選ばない。これがセンバツ高校野球の矜持だった。ある時期まで、選考委員は候補校を訪問したが、その際は「選手が礼儀正しく挨拶をしたか」「上履きがきちんと並べられているか」までチェックしたという。
例年になく問題視された背景は?
終戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は「なぜ、甲子園大会が2つもあるんだ? 1つでいいじゃないか?」と疑義を呈した。そこで毎日新聞の本田親男大阪本社編集局長(のち社長)が「春と夏では違う意義がある。選考基準も違う」と説き伏せてセンバツを存続させたのだ。
こうした経緯を見てもわかる通り、野球の「勝敗」だけではなく「他の要素」も含めて選抜する。これが「春の甲子園」のコンセプトだ。さらに言えば2001年に設けられた「21世紀枠」は「部員不足やグラウンドがない、豪雪地帯といった学校・地域の特性などの困難を克服した学校、ボランティアなど野球以外の活動での地域貢献で他校の模範となる学校を選出」するとなっており、これも「センバツ」の考え方を敷衍したものと言えよう。
こうした経緯を考えれば、今回もまったく問題がなかったはずだが、例年になく問題視された。これはネット社会になって、野球ファンが、甲子園だけでなく秋季大会など地方大会の成績もオンタイムで知ることができ、選考の状況を詳細に把握していることが大きいだろう。秋季大会の結果と反する選考になれば、ファンもメディアもすぐに気がつくのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら