圧倒的不利を逆転「平清盛」武才がわかる驚きの策 平氏が栄華を極める契機「平治の乱」の顛末
清盛が帰洛したことにより、二条天皇の側近たちの中には、信頼を裏切り、清盛に通じる者も出てくる。
彼らは、二条天皇を六波羅に行幸(天皇が出かけること)させる計画を立案。清盛は、信頼に名簿を捧げて、服従の意を示し、油断させたばかりか、天皇を女装させ、六波羅に脱出させることに成功した。後白河上皇も無事に仁和寺に逃れることができた。一夜にして、清盛方が官軍となったのである。
まんまと天皇を奪われた信頼を、源義朝は「日本第一の不覚人」と罵倒したという。義朝の気持ちも分からなくはないが、義朝とて、清盛を易々と京都に入れてしまったことは「不覚」と言われても仕方ないであろう。
12月26日、清盛方は皇居に向かう。信頼らを追討するためである。『愚管抄』は平治の乱における清盛を「直垂に黒皮威の鎧」「大鍬形の甲」を着用し「黒き馬に乗」り、戦場を駆ける頼もしい武将と記している。
源義朝軍は平家方からの攻撃を受け、あえなく敗退。義朝は東国で再起を期そうとして都を出る。しかし、尾張国において、家人であった長田忠致に裏切られ、殺害されるのであった。信頼は清盛の面前に引き据えられ、自己弁護するも、許されず、斬首される。こうして、平治の乱は終わりを迎えた。
名将といえる平清盛にも落とし穴
清盛は上皇や天皇を敵方に奪われている不利な状況を逆転させ、勝利をつかんだのである。情勢の判断と、その計略は名将の名に値するものであろう。ちなみに、源義朝の嫡男・頼朝も戦に加わっていたが、逃亡中に父とはぐれ、平家方に捕らえられる。頼朝は処刑されてもおかしくはなかったが、清盛の継母・池禅尼の取りなしにより、助命。伊豆国へ配流された。
この頼朝が、約20年後に、平家に対して挙兵し、牙を剥いてくることになろうとは、鋭敏な清盛もさすがに思い至らなかったろう。清盛は、死の間際、高熱に苦しむ中、遺言として「頼朝の首を墓前に供えよ」と一族に厳命したというが、そこには頼朝の命を助けた自らの選択を後悔する念もあったはずだ。
平治の乱での勝利は、平家全盛の基礎を築いた。しかし、その戦後処理のなかに、すでに平家滅亡の兆しが埋め込まれていたのだから、歴史というものは真に恐ろしいというべきであろう。
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