圧倒的不利を逆転「平清盛」武才がわかる驚きの策 平氏が栄華を極める契機「平治の乱」の顛末
「保元の乱」のその後
平安時代末の内乱である保元の乱(1156年)以降、「武者の世となった」と言われる。ところが、古典『平家物語』には保元の乱に関する記述が少なく、これから述べる平治の乱(1159年)についても、さらりとしか触れていない。
「平治元(1159)年12月、藤原信頼が謀反を起こしたときも、平清盛は、官軍として賊軍を鎮定した。『功績は1つだけではない。恩賞は、厚くなされるべきだ』ということで、翌年には、清盛は正三位に叙せられ、続いて、参議、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言と出世の階段を昇る。ついには、大臣の位に至り、左大臣・右大臣を経ずに、内大臣から太政大臣・従一位に進むことになった」(『平家物語』を著者が現代語訳)
しかし、清盛が保元の乱だけでなく、平治の乱においてまたしても「勝ち組」に与したことは、清盛そして平家隆盛の大いなる契機になった。
保元の乱後の国政を主導したのは、後白河天皇(保元3[1158]年に上皇)を擁立した信西であった。
信西は、藤原南家の学者の一族に生を受けた。俗名は藤原通憲といったが、早くに出家し、法名である信西を名乗る。信西は元来、優秀であったことと、妻の朝子が後白河天皇の乳母だったこともあり、出家はしても、後白河を支え、政界で頭角を表していく。
保元の乱後、信西は荘園整理令の発布や記録所(荘園整理の目的で設置)の設置、皇居の再建など矢継ぎ早に政策を推進していく。改革実現のため、信西は自らの子どもたちを要職に起用する。長男の俊憲は検非違使、蔵人に、次男の貞憲も蔵人となる。後白河上皇の乳母・紀伊二位との間に儲けていた成範、脩範も国司となったり、近衛府の役人になったりした。
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