語り継がれる「真田丸」戦術のここが凄い! 家康を追い詰めた信繁の「生き様」に学ぶ

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弱者には弱者なりの戦い方と生き残り策がある(写真: Mizuho Kitabatake / PIXTA)
大河ドラマ『真田丸』(堺雅人主演)が好評だ。前回記事では、主役の真田信繁(幸村)以上に存在感が際立っている真田昌幸(大河で演じるのは草刈正雄)の智恵と生きざまについてふれた。
ドラマでは最後のほうの放送になるが、タイトルでもある「真田丸」は、なぜ構築され、信繁はいかに戦うことになったのか? 大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」など多数の風俗・時代考証を手がけたことでも知られ、『「その後」が凄かった!関ヶ原敗将復活への道』(SB新書)を著した二木謙一氏が、満を持して大坂の陣に臨んだ信繁の智恵と生きざまに迫る。

大坂城唯一の弱点に「真田丸」を築いた信繁の先見性

類い希なる知略と武力によって、一代で目覚ましい出世を遂げた真田昌幸。しかし、勢いに乗る昌幸を待っていたのは、思いがけぬ運命だった。

慶長5年(1600)、石田三成に誘われた昌幸は、東軍(徳川方)につく長男・信幸(後に信之と改名)と袂を分かち、次男・信繁とともに西軍に寝返った。ところが西軍があっけなく大敗。昌幸と信繁は、信幸の徳川家への必死のとりなしで死罪こそ免れたものの、高野山に蟄居させられることになった。

幽閉されること11年、 慶長16年(1611)6月に昌幸は九度山で死去した。昌幸は生前に徳川と豊臣は手切れになると予測し、豊臣方必勝の秘策を信繁に授けていた。だが、「名のないお前が献策しても、受け容れられないだろう」と憂慮もしていた。

慶長19年(1614)に、いよいよ豊臣家と徳川幕府の関係が決裂すると、信繁に大坂城から密かに使者が訪れた。信繁に大坂城への入城を要請し、支度金として金200枚と銀30貫を積み上げ、勝利の報酬に50万石を提示した。父が予測した展開になり、流人で終わるかと思っていた信繁の闘志に火がついた。

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