語り継がれる「真田丸」戦術のここが凄い! 家康を追い詰めた信繁の「生き様」に学ぶ
秀頼は主戦を唱えていたが、備前島から撃たれたカルバリン砲の一弾が、淀殿の居室に命中して侍女が即死したため、ショックを受けた淀殿が和議に前向きになっていた。淀殿の叔父織田有楽と子の頼長、甲州流軍学者の小幡景憲などは、スパイとして大坂城に送り込まれており、彼らは淀殿の居室の位置を知らせていたと思われる。開戦半月後に和議が成立したが、それは大坂城の一部の堀を埋めることが条件であった。
家康を瀬戸際まで追い詰めた弱者の兵法
和議の間に信繁は、兄・信之の名代として徳川方で参戦した信吉(のぶよし)と信政(のぶまさ)の二人の甥と面会した。二人の甥にとっては徳川方を撃退した信繁が誇りであった。また家康は叔父の真田信尹(のぶただ)を通じ、信繁に10万石を提示して勧誘、信繁がこれを断るとさらに家康は信濃一国という条件を出してきたが、信繁は「秀頼公へ忠義を尽くしたい」とした。この間にも信繁は、家康と秀忠の陣に夜襲を提案したが受け入れられなかった。
家康は和議条件を守らず大坂城の総堀を埋めて丸裸にしたうえで、秀頼が大坂城を退去するか、浪人を追放するかを選べと要求してきた。追い詰められた秀頼は、再戦を決意するが、希望のない戦いに10万の兵力も5万5000ほどになっていた。
慶長20年(1615)4月26日に、大坂方の大野治房(はるふさ)が大和に攻め入ったことで、大坂夏の陣の火蓋は切られた。大坂方は大坂城を出て戦わねばならず、兵力の多さが勝敗を決する野戦で、大坂方の武将たちは次々と討死していった。
最期の決戦となる5月7日、大野治長が信繁の茶臼山(ちゃうすやま)の陣を訪れ、最後の作戦を打ち合わせた。信繁は逆転を狙って〝家康の首〟を取ることだけに目標を定め、残された兵力を集結させて大軍を引き受け、その間に別働隊を敵の背後から奇襲させるという秘策を開陳し、秀頼公の出馬があれば敵は萎縮し、味方は士気を上げ勝てるとした。
赤一色に染め抜いた真田隊は、味方の損害にもかまわず突入し、敵中で「浅野殿裏切り」と叫ばせたので、敵陣は大混乱に陥った。その隙に乗じて家康の本陣へ三度にわたって突き入ると、家康の旗本は逃げ散り、一人残された家康は「俺は死ぬ」と叫んだという。
家康の危機に徳川方が駆け付け、信繁はついに家康を捉えることはできなかった。信繁は疲れ果てて全身に傷を負い、四天王寺付近の安井(やすい)神社境内で、動けない身体を休めていた。やがて越前の松平忠直の兵が押し寄せ、鉄砲頭の西尾仁左衛門に首を与えた。信繁の首は家康に首実検され、家康を見捨てて逃げ散った旗本たちに「お前たちも真田にあやかれ」と言って、信繁の髪の毛を抜いて分け与えたという。大坂城は翌日に炎上して落城した。
大坂の陣では信繁の必勝の策も受け入れられなかった。不利な籠城戦を少しでも有利にするための渾身の策こそ「真田丸」であった。冬の陣の直後に真っ先に取り壊されていることからも、徳川方がいかに脅威に感じていたかがうかがえる。
父・昌幸とともに親子二代で家康を苦しめた信繁は、徳川の幕政下でも「真田日本一の兵」と言い伝えられた。信繁の智恵と生きざまは、現代人にも弱者には弱者なりの戦い方と生き残り策があることを示してくれるだろう 。
冬の陣では、信繁の必勝の策が却下され「真田丸」を作って敵と対することになったが、信繁の配下の将兵は、ほとんどが本来の信繁の家臣でないにもかかわらず、信繁を信頼し死をも厭わず、家康の首を取るために突撃したが、信繁には部下に「意気に感ず」魅力があったことを証明しているだろう。これは現代にもいえることだ。周囲に「意気」を感じさせることのできる人が、仲閒を集め、物事を成していくのではないだろうか。
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