平清盛を隆盛に導いた「壮絶な身内ケンカ」の中身 武士が実権を握る原点となった「保元の乱」
『平家物語』の記述は実にあっさり
平安時代末期の内乱である保元の乱(1156年)は、皇位継承をめぐって崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、摂関家では藤原忠通と頼長の兄弟が激しく対立し、そこに源氏や平氏などの武士が加わった戦いだ。武士の政界進出を促すことになった、日本史の教科書に必ず載っている合戦である。
だが、平氏の栄枯盛衰を描いた『平家物語』における保元の乱の記述は、実にあっさりとしている。それは次のようなものだ(現代語訳は筆者)。
「平忠盛は刑部卿(司法全般を管轄する省庁の長官)に任じられたが、仁平3(1153)年正月15日に、58歳でこの世を去った。嫡男の清盛がその後継者となる。保元元(1156)年7月、宇治の左大臣・藤原頼長が反乱を起こしたとき、安芸守であった清盛は、後白河天皇に味方して戦功を立てた。よって戦後は、播磨守に任命され、保元3(1158)年には、太宰大弐(九州の地方行政機関・太宰府の次官)になったのである」
平忠盛が死去し、いよいよ、その嫡男・清盛が登場してくる場面である。そして「保元元(1156)年7月、宇治の左大臣・藤原頼長が反乱を起こしたとき」というのが、保元の乱のことを指すのだが『平家物語』はサラリと流している。しかし、この戦いで「勝ち組」についたことが、清盛のさらなる躍進の契機となった。
鎌倉時代初期の史論書『愚管抄』(作者は天台宗の僧侶・慈円)は、鳥羽法皇(崇徳上皇と後白河天皇の父)が崩御してすぐに勃発した保元の乱によって、日本国は「武者の世になった」と記している。そうしたことを考えたとき、保元の乱は、清盛の躍進の契機となったのみならず、日本の歴史全体に大きな影響を与えたということになる。
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