圧倒的不利を逆転「平清盛」武才がわかる驚きの策 平氏が栄華を極める契機「平治の乱」の顛末
力を持った信西のよきパートナーとなったのが、平清盛であった。清盛の娘は、信西の息子・成範と結ばれている。
その一方で、源義朝も信西との結び付きを強めようと、信西の息子の是憲を婿に迎えたいと願うが、信西は「わが子は学問を志している。武者の婿にはふさわしくない」と断られていた。よって、義朝は、反・信西グループの中心にいた藤原信頼に接近していくことになる。
信頼は「文にあらず、武にあらず、能もなく、芸もなく」(『平治物語』)と散々な言われようだが「27歳で中納言・右衛門督になった」ように出世だけは早かった。その理由を鎌倉時代初期の史論書『愚管抄』(天台宗の僧侶・慈円の作)は「あさましき程に御寵ありけり」と記す。つまり、後白河上皇の寵愛、この場合は男色関係によって、異例の出世を遂げたというのだ。
信頼は、藤原道長の兄・道隆に連なる一族の出身であった。親族の女性たちは、崇徳天皇(後白河の兄)や後白河天皇の乳母を務めることもあった。信頼が後白河の近辺に付き添う下地はすでにできていたと言えよう。
自分より身分が低い信西の勢力拡大に対抗心
しかし、自分よりも身分の低い信西が、自らの子息を次々に朝廷の要職に送り込んで活躍している現状を見て、信頼が対抗心を燃やしたとしても不思議ではない。『平治物語』には、信頼が大臣の地位を望んだものの、信西に阻止され、これを激しく恨んでいたという。
信頼は子息の信親を清盛の娘と結婚させていたが、清盛は信西との結び付きが強く、いざというときには頼りにならない。そこで、信頼が結んだのが、源義朝であった。さらに、信頼は二条天皇(後白河の子)の側近グループとも結び付きを強める。側近グループは、二条天皇の親政を望んでいたが、障害となっていたのが、後白河上皇を後ろ盾にする信西であった。
信頼にとっても信西は邪魔。両者の利害は一致したのである。そして、平治元年12月9日、信頼と源義朝が挙兵する。清盛は熊野参詣の途上であった。清盛はその情報を得て、一時は九州に落ち延びて再起を図ることも考えたが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の援助を受け、都に向けて進撃することとなる。
12月17日に清盛は京都の六波羅に入った。そのころまでに京都の情勢は大きく変わっていた。信頼らは、三条烏丸御所を襲撃・放火し、後白河上皇と上西門院(後白河の姉)を内裏の一本御書所に拉致する。信頼方は御所に矢と火を放ち、それにより多くの女房たちが亡くなったという。
後白河上皇と二条天皇を確保した信頼方は圧倒的に有利に見える。逃亡していた信西は自害し、その首は京でさらされた。信頼らは信西の知行国を没収したり、一族を捕縛し流罪に処したりすることには成功したが、それ以外のことをなすことはできなかった。
都に着いた清盛の攻勢が始まったからだ。
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