大久保利通を倒幕へ動かした「徳川慶喜」仰天行動 支持してきた人物が変節、挫折から得た教訓

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「無謀な攘夷は好まないが、諸侯で話し合い、確固たる政治方針について話し合ってほしい」

家茂は1月21日にそんな勅書を受け取っているが、起草したのは久光だということを、のちに慶喜は見破っている。勅書を受けて日本の対外的な方針について、老中や慶喜、そして久光ら諸侯が協議を重ねた。

もはや、攘夷は現実的ではないのは誰の目にも明らかだ。特に薩摩藩は、薩英戦争によって欧米の実力を実感していた。

結果的には引き分けに終わったとはいえ、軍備の差は歴然であり、条約の破棄は現実的ではない。日米修好通商条約に基づいて開いた横浜港のみ閉じられるよう「実現に努力する」程度の表現でお茶を濁すという結論になった。

要は「最低限の攘夷をやっているフリをして、朝廷には納得してもらおう」ということになったのだが、天皇簾前の会議で、慶喜は態度をがらりと変える。「何としてでも横浜鎖港を断行すべきだ」と変節し、朝廷側についたのである。

慶喜が暴言を吐いた理由

そして中川宮邸で宴席を開かれると、島津久光、松平慶永、伊達宗城の前で酔っ払い、薩摩藩とつながっている中川宮に対して、こう迫っている。

「薩摩人の悪だくみはみんな知っているのに、あなた1人がだまされて信用しているから、こんな問題になっているのだ」

政局を思うままにする薩摩藩へのフラストレーションを、いきなり爆発させた慶喜。そして冒頭の「この3人は天下の大愚物」というセリフを吐いて3人を面罵。一同はあっけにとられながらも、その後、慶喜は部屋からつまみだされている。

慶喜が暴言を吐いた理由は、薩摩藩が気に食わなかっただけではない。確かに、慶喜は開国派ではあったが、どんなときでも朝廷をないがしろにするべきではないというのが、一貫したスタンスである。

また、参与会議が力を持つことは、徳川家が力を失うことでもあり、慶喜の本意ではない。慶喜からすれば、自分のことを味方だと思う薩摩藩こそ、理解不能だったのはなかろうか。

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