大久保利通を倒幕へ動かした「徳川慶喜」仰天行動 支持してきた人物が変節、挫折から得た教訓

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背景には「躍進する薩摩藩vs警戒する慶喜」という図式があった。「八月十八日の政変」で長州藩が京から追い出されると、文久3年(1863年)10月3日、大久保をはじめに約1700人の薩摩藩兵が京都に入った。率いるのは島津久光である。

久光といえば「無位無官で京に上るのは無謀だ」と、かつて西郷隆盛からこき下ろされたことがあったが、その障壁もとうとうクリアされる。京で大久保が奔走した結果、年明けには、久光は従四位下左近衛権少将に任官し、朝議参与にも任命された。ついに、久光は無位無官から脱却し、2日おきに朝廷に参内して朝議(朝廷での評議) に出席する資格を得たのである。これを「参与会議」と呼ぶ。

まさに久光にとっても、薩摩藩にとっても「わが世の春」といえるだろう。お膳立てをした大久保は、これまで幾度となく裏工作をしてきた経験をフルに生かして、総決算ともいうべき入念な下準備を行っていた。

久光を朝議のメンバーに加える画策をした大久保

大久保は、将軍後見職の徳川慶喜、前越前藩主の松平慶永、前宇和島藩主の伊達宗城、前土佐藩主の山内容堂らを訪問。同時に、朝廷に掛け合って、久光だけではなく、慶喜や各藩の有力者も朝議のメンバーに加えるように主張した。朝廷は口出しされるのを嫌ったが、大久保が得意とする粘り腰で要望を通すことができた。

さらに、その一方で、江戸幕府への働きかけも抜かりはなかった。老中の板倉勝静に手紙を書いて、将軍家茂の上洛を促している。手紙は草案を大久保が書き、久光が加筆するスタイルだ。久光の後ろにはつねに大久保の存在があった。

元治元(1864)年1月15日、久光が晴れて朝議参与となった2日後に、家茂は上洛を果たす。孝明天皇とともに政変をしかけて長州藩を追放した中川宮(朝彦親王)が、家茂に対して「有力藩の代表者も幕政に参加させるように」と勧告した。もはや幕府も、有力藩の意見に耳を傾けざるをえなくなったのである。

天皇、朝廷、幕府、有力藩――みなが一体となり、欧米の脅威から国を守るために、知恵を絞る。そんな理想的な布陣が今、でき上がったといえよう。各方面をつなぐハブとなったのが薩摩藩であり、久光であり、大久保利通である。

新しい時代の到来を関係者の誰もが予感した。だが、そのなかで、この動きに不満を持つ者が1人いた。それが徳川慶喜である。

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