慶喜は徳川家に生まれながら、母方からは朝廷の血を引いている。こんな家訓を叩き込まれて育った。
「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」
そんな慶喜にとって、朝廷と近づき、自分を介して政治的影響力を高めようとする薩摩藩には不信感しかなかった。かつて若き岩倉具視が孝明天皇にこう意見したのと、同じ気持ちを慶喜も抱いていたに違いない。
「有力大名が公家と接触して京に入ってくることは混乱の一因になりかねない。伊達や島津のような外様雄藩を頼ることは決して考えてはならない」(「神州万歳堅策」)
本来は薩摩のことを歯牙にもかけたくない
慶喜の盟友でもある松平慶永は、慶喜が薩摩藩を嫌っているのはよくわかっていた。だから、慶喜が京に入ると、すぐに訪問してこう聞いている。
「薩摩のことをお疑いになっているのか」
長州藩が追放されて、過激な尊王攘夷派が京から立ち去った今こそ、有力大名がまとまらなければならない。だからこそ、おそらく薩摩藩と組みたくないであろう慶喜の心情を、慶永はすぐにでも知りたかったのだろう。
慶喜はこう返答している。
「幕府は大いに疑っていたし、私も同様だったが、疑ったところで何もよいことはないので、もう疑うことのないようにしている」
慶喜が慶永を欺こうとしたとは、筆者は思わない。慶喜にしてみれば、外様にすぎない薩摩藩を、自分が過度に意識していると思われるのも心外だったのだろう。本来は歯牙にもかけたくない相手だった。
だが、実際に京に上って薩摩藩の勢いを見て、慶喜は驚いたのではないか。もはや政局のキャスティングボートを握っているのは、久光である。朝廷との関係性もいつの間にか強固になっている。久光の影響力の裏にある大久保の実力も、慶喜は見抜いていたことだろう。
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