元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚
「対馬からも知らせが来ていたのですか」
時宗がうなずくと、宗三郎はわれを忘れて詰め寄った。
「ならばなぜ! 援軍を送ってくださらなかったのですか!」
時宗は「それは時間的に難しかろう」と冷たく言い放つと、立ち上がった。
「おぬしのおかげで、相手の戦い方がわかった。対策をさらに強化できる」
さらに強化? 蒙古が来襲することを事前に知っていたのか? 言葉がすぐに出ない宗三郎を置いて、時宗はそそくさとその場を立ち去った。宗三郎はただ、こうつぶやくことしかできなかった。
「私たちは、捨て駒だったのか……?」
日本軍の反撃に手こずった蒙古軍
文永11年(1274)年10月20日、元・高麗の蒙古軍は博多湾に上陸。博多から箱崎を攻略して、日本軍の本拠たる大宰府を一挙に占領しようとする。だが、そこで日本軍の反撃にてこずることになる。
時宗は来襲に備えて、九州各地の沿岸に防塁(ぼうるい)を築き、さらに兵を広く募って警備を強化していた。そのうえ、港にいる高麗人や朝鮮人から、蒙古の情報を収集しながら、対抗するための武器づくりも行っている。限られた時間のなかで、対馬、壱岐での惨状を聞いたことも、対策を練るうえで役立ったことは言うまでもない。
それらの万全な準備が功を奏したのだろう。とりわけ日本側の夜襲に苦しめられたようで、蒙古軍は大宰府の占領を諦めて、船に引き上げている。元の総司令官、クドゥンはこんな意見を述べたという。
「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」
「神風」といわれる暴風雨が吹くのは、撤退した日の夜半のことであった。「元寇で日本は神風に救われた」とよく言われるが、元はその前から、日本の思わぬ抗戦に、撤退を決めていたことが、文献で明らかになっている。
暴風雨はトドメを刺したにすぎず、日本は実力で蒙古を撃退していたのである。そして、その勝利の陰には、対馬や壱岐での語られざる悲劇があったのだった。
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