元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚

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宗三郎が急いで場に加わると、景隆が口を開く。

「対馬は全滅したそうだ」

場のどよめきが一段と増す。宗三郎がそばにいた兵に「何事だ」と聞くと、どこか呆然とした面持ちでこう答える。

「蒙古……海の向こうから蒙古が来るらしい……」

宗三郎が口を開く間もなく、景隆は、騒然とする兵たちに「うろたえるでない!」と一喝した。兵の一人を呼び寄せて言う。

「筑前守護の少弐資能(しょうにすけよし)に援軍を頼んでくれ」

「しかし、今からでは……」

「いいから、急げ!」

宗三郎はほかの家来と同様に、景隆とともに海岸へと急いだ。蒙古を迎え撃つためである。こちらの兵の数は100あまり。これで十分なものなのかどうかも、見当がつかない。宗三郎は半信半疑で海のほうを見つめた。

「ほんとに蒙古が来るのか、この島に……」

しかし、すでにこのとき、壱岐島での大惨劇までのカウントダウンが始まっていた。ちょうどそのころ、先に攻撃を受けた対馬からなんとか逃げ出した小舟が、大宰府へと急いでいた。惨状を伝えるためである。

実は大宰府にとって、蒙古、つまりモンゴル帝国の襲来は、ありえないことではなかった。時代はややさかのぼって、文永5(1268)年、朝鮮半島の高麗(こうらい)より使節団が大宰府に到着し、モンゴル帝国からの国書が届けられていたからだ。国書は次のような内容だった。

「蒙古国皇帝、書を日本国王に奉じる」

丁寧な国書の文面とは裏腹に、内容は日本の態度を戒めるものだった。すでに高麗もモンゴル帝国の支配下にあるなか、日本から遣いの1人も来ないとはどういうわけか。そう詰問しながら、国交を求めてきたのである。

逆らうことは許さないという脅し

「相通好せずんば、あに一家の理ならんや。兵を用いるにいたっては、それ、いずくんぞ好むところぞ」

友好関係を結べなければ、兵を出さなければならない。誰がそれを好むだろうか──。国書の最後は「不宣(ふせん)」(十分に意を尽くしていない)という、友人の間で交わされるような友好的な言葉で締めくくられている。

だが、それは表面的なものであり、逆らうことは許さないという脅し以外の何物でもなかった。突然の出来事に、鎌倉幕府と朝廷は正月早々、騒然となる。その日のことを、関白の近衛基平は日記にこう記している。

「国家の珍事、大事なり」

国書は幕府から朝廷へと回されて、激論が交わされることになる。だが、結論はノーと決まっていた。

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