元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚
当時、他国との通交といえば、平安時代に平清盛が中国の宋朝との貿易を本格化させている。日宋貿易と呼ばれるもので、鎌倉幕府にも引き継がれたが、あくまでも私的な貿易だ。寛平6(894)年に遣唐使を廃止して以来、日本はどの国とも正式な国交を結んではいなかった。
そのため、問題は拒絶の返答をするか、しないかということであった。
実に国書の到着から10日間にわたって朝廷で議論が行われ、幕府とも検討を重ねたが、18 歳の青年が決断を下している。
鎌倉幕府の執権に就いたばかりの北条時宗である。
「無礼なるによりて、返事に及ばぬ」
そう毅然とした態度で貫き通すことにしたのである。
なぜ、それほど強気な態度に出たのか。鎌倉幕府は明らかにモンゴル帝国の勢いを見くびっていた。なぜならば、平安時代から鎌倉時代にかけて、日本は日宋貿易を通じてのみ中国の状況を把握しており、北方の諸民族についての情報はかなり限定的だった。
モンゴル帝国の実力を見誤ってしまい、国書をすべて黙殺するというリスクの高い外交につながってしまったと考えられる。無視されたモンゴル帝国は、その後に「元」と国号を改め、7年間にわたり日本に使節を派遣。実際に日本に到着したのは3回だったが、使節を送り込んだのは計6回にも及んだ。それでも日本は黙殺し続けた。
3000人もの軍勢が対馬に到着
文永11(1274)年、しびれをきらした元は、日本を襲撃することを決意する。3000人もの軍勢が10月5日、対馬に到着した。
対馬の守護代の宗助国(そう・すけくに)が80騎あまりの兵を率いて抵抗を見せるが、わずか2時間で、蒙古軍に討ち死にさせられてしまう。村民の多くは虐殺されるか、捕虜としてとらえられた。そして10月14日、蒙古軍はいよいよ壱岐に到着することになるのだった。
そんな経緯を知る由もない宗三郎は「もしかしたら、何かの間違いではないか」とも思っていたが、過酷な現実は目の前にまで迫ってきていた。
元の先発隊として2隻の船が到着すると、約400人の兵たちが上陸してきたのである。
「カーン」
そんな鐘の音とともに、蒙古軍の矢が雨のように降り注いだ。日本の矢に比べて、飛距離は2倍。放たれた瞬間に射抜かれる。おまけに矢には毒が塗られていた。
「名乗りもせず攻撃してくるとは……」
宗三郎が戸惑っていると、「怯むな!」という景隆の声が飛ぶ。その瞬間、爆発音とともに砂埃が舞い、兵士たちが人形のように吹き飛んだ。
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