「田舎者」となじられても一度は耐えた久光だったが、今回ばかりは許せなかった。命令無視もさることながら、西郷の動きはあまりにも不穏だったからである。
というのも、このとき精忠組のなかの過激派が勝手に京に上り、尊王攘夷派と連携しようとしていた。大久保は久光に「西郷は大阪で過激派を鎮圧しようと働きかけています」と報告するが、実際はどうも西郷自身も過激派に合流しようとしていた節もある。少なくとも、久光にはそうとしか思えなかった。
勝手な行動は許さないと、久光は精忠組の急進派たちを処罰。西郷は鹿児島へ送還されて、その後、徳之島、ついで沖永良部島へと流されることとなった。
「刺し違えて死のう」と切り出した大久保
島流しにされる前、伏見を発った西郷は兵庫に立ち寄り、大久保が泊まる宿にやってきた。大久保は訪ねて来た西郷を人気のない浜辺に連れ出して、こう切り出したといわれている(『大久保利通伝』)。
「今ここに終わった。刺し違えてともに死のう」
今度は西郷が大久保を止める番だった。西郷はこう言った。
「互いに刺し違えれば、誰が勤王の大志を貫徹するというのか。自分はどれだけ責められようが、どんな辱めを受けようが構わない。いかなる罪も受け入れる覚悟だ。お前はどうか耐え忍んで、国家のために力を尽くしてほしい」
西郷の言葉に、大久保も生きる道を選ぶことになる。
周囲からは、理解しがたい関係には違いない。現に、同志だったはずの中山すらも、西郷の勝手な行動に腹を据えかねて「処罰するべし」と久光に進言している。大久保も同じように西郷に激怒してもおかしくはなかった。また西郷も、大久保のずさんな計画につきあうことなく、国元に引っ込むこともできたはずだ。だが、2人はそうはしなかった。
西郷と浜辺を歩いたこの日、大久保は日記にこう記している。
「心中、なかなか耐え難く候」
西郷は島に流されて、大久保も混乱の責任をとり謹慎。
(第7回につづく)
【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(?中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
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