そんな経緯があっただけに、満を持して鹿児島に帰ってきた西郷が、久光の上洛計画に大反対したのは、大久保にとって大きな誤算だった。京に出発しようとする10日前のことだ。西郷は目の前にいる久光に計画実行の延期を訴えたうえで、こんなことまで言った。
「どうしても行かねばならないのならば、京都には寄らずに直接、海路で江戸に向かってはいかがでしょうか」
久光からすれば、屈辱的だったことだろう。兄の斉彬のときには協力した西郷に、そんな提案をされるのは「お前は京では相手にされない」と言われているに等しい。久光は西郷の案を即座に却下している。
だが、西郷からしてみれば、それこそが本意である。「官位を持たず藩主でもない久光には、中央政局で発言する資格すらなく、相手にされない」というのが、西郷がこの計画に反対する最大の理由だった。
それでも相手の微妙な反応を察すれば、人は「そういうことじゃありませんよ」とついフォローしてしまうものだが、西郷は違う。ぼかしても伝わらないなら、とあまりにストレートすぎる表現で、久光に自分の思いを伝えた。
「あなたのようなジゴロ(田舎者)に、斉彬公の代わりは務まるはずもない」
大久保は青ざめたことだろう。実は、この場を迎えるまでに、西郷が久光の上洛に反対であることは、すでにわかっていた。大久保の屋敷で、喜びの再会を果たした2人だったが、久光の上洛計画に話が及ぶと、西郷は断固として反対の姿勢を崩さなかった。
意外なほど理詰めで物事を考える西郷
どちらかというと「大久保は緻密な性格で、西郷は豪胆な性格」というイメージを持たれやすいが、実際はそうとも言い切れなかった。「とにかく少しでも前進したい」と実効性を重視する大久保は、時に理屈より行動を優先するところがあった。
一方の西郷はといえば、意外なほどに理詰めで物事を考える。腹落ちしなければ、動かない。そんな頑固さは大久保にもあったが、実は西郷にもみられた傾向だった。
思わぬ反対に遭って困った大久保は、薩摩藩士の小松帯刀が住む屋敷に場所を移し、西郷の説得を試みる。このときに薩摩藩士の中山尚之助も同席している。
だが、西郷の意見は変わらなかった。それどころか、「有力な縁故者はいるのか?」「老中が承諾する見込みはあるのか?」と西郷から計画の甘さを、どんどん突っ込まれてしまう。
大久保らが「その方面にはまだ手をつけられていない」と答えると、西郷はこう畳みかけている。
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