6年前、父を亡くした娘が結婚に踏み切れない訳 小説「さよならも言えないうちに」第4話全公開(2)

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「わかりました。他には?」

数が説明を続ける。

「亡くなった方に会いに行く人は、ついつい情に流されて制限時間があることを知りながら別れを切り出すことができなくなります。だから、これ……」

数は、トレイからマドラーのようなものをつまみ上げ、路子の目の前に差し出してみせた。

「なんですか、これ?」

「こうやって入れておけば、コーヒーが冷めきる前にアラームが鳴りますので、鳴ったら速やかにコーヒーを飲みほしてください」

数はマドラーのようなものをカップに差し入れ、銀のケトルに手をかけた。

「鳴ったら飲めばいいってことですね?」

「はい」

路子は小さく深呼吸をした。

(亡くなった父に会いに行く)

そう考えるだけで胸が締めつけられ、息が荒くなる。果たして冷静でいられるのだろうか? 何をしても現実は変えられないというが、もし取り乱して、震災のこと、父が亡くなってしまうことを口走ってしまったら? そうすると、父は亡くなるまでの数日間、どんな思いで過ごすことになるのだろうか? まとまらない思いが巡る。

「いいですか?」

そんな路子の迷いを断ち切るように数が声をかける。

「過去へ行く。本当に」

(そうだ。さっき「本当にいいんですね?」と聞かれたばかりだ。その時、私は父に一言謝ろうと決めたんだ)

路子は目を閉じて大きな深呼吸をして、

「……お願いします」

と、答えた。覚悟を決めるしかない。

強い決意を込めた瞳でカップを見つめる路子とは裏腹に、数は涼しい顔でケトルを持ち上げた。

(過去へ行く。本当に)

店内の空気がピンと張り詰めるのが路子にもわかった。

「コーヒーが冷めないうちに」

『さよならも言えないうちに』(サンマーク出版)、シリーズ第1作は世界中でベストセラーの『コーヒーが冷めないうちに』。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら

シンと静まりかえった店内で数は透き通った声でそう言うと、ケトルを傾け、コーヒーを注ぎはじめた。コーヒーが満たされたカップから一筋の湯気が立つ。

ぐらりと天井がゆがむ。

(めまい?)

路子は湯気の軌道を目で追っていた。だが、実際には自分の体が湯気のようにフワリと宙に浮き、目に見える景色が上から下へぐんぐん、ぐんぐん流れている。

(何が……、起こって……いるの?)

動転する頭のまま、路子の意識は遠くなる。

お父さん……。

(続き【第3回】6年前の父に「今の私」伝えた彼女の時空超えた旅(12月3日配信)

川口 俊和 小説家、脚本家、演出家

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かわぐち としかず / Toshikazu Kawaguchi

大阪府茨木市出身。1971年生まれ。舞台『コーヒーが冷めないうちに』第10回杉並演劇祭大賞受賞。同作小説は、本屋大賞2017にノミネートされ、2018年に映画化。川口プロヂュース代表として、舞台、YouTubeで活躍中。47都道府県で舞台『コーヒーが冷めないうちに』を上演するのが目下の夢。趣味は筋トレと旅行、温泉。モットーは「自分らしく生きる」。

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