いま、なぜジョブズなのか?
ジョブズのプレゼンテーションはすでに伝説になっている。製品の売り上げ総額をプレゼンの時間で割った数字から「3分間で100億円を生む」とも言われた。1998年のiMac、2001年のiPod、2007年のiPhone、2010年のiPadと、いずれも見事なパフォーマンスを披露している。
ジョブズの一挙手一投足に聴衆は熱狂し、拍手と歓声が上がる。ステージの上でiPhoneを操作して見せるジョブズは、まるで奇跡を行うイエスのようだ。彼はいま福音を届けにきたのだ。iPhoneという物質的なかたちあるものとして。
たしかにジョブズのプレゼンには伝道や布教のイメージがある。とくにがんを患ってからの彼には、ぼくたちのよく知っているイエスのイメージが重なる。イエスが神と人間のあいだを取り持ったように、ジョブズはテクノロジーと人間のあいだを取り持った。どうやって? テクノロジーをパーソナルなものにすることによって。そんなことはかつて誰も考えなかった。IBMに象徴されるテクノロジーは政府や企業のもので、パーソナルとは対極的なものだった。それは巨大で醜いものだった。
このビッグ・ブラザーに齧りかけのりんごが戦いを挑む。ジョブズにとって「パーソナル」とは何よりも小型化を意味した。コンピュータを持ち運びできるものにする。アップルを立ち上げたときから、彼がそこまで考えていたかどうかはわからない。だが現に彼は持ち運びできるコンピュータを作ってしまった。
いまやほとんどの人は、自分の上着やズボンのポケットに入っているスマホをスーパー・コンピュータとは思っていないだろう。ではなんと思っているのか? なんとも思っていない。「何」と意識することさえないところまで、スマホからはテクノロジーの匂いが消えている。