「世界遺産=観光地」として見る人の大いなる誤解 本来の目的は「遺跡や自然環境を保護する」こと
この世界遺産という概念が確立してくるにあたって、戦争は大きな意味を持っていた。欧州における第一次および第二次世界大戦の惨禍を見ればわかるのだが、この二度の戦争を通じて、芸術品・美術品を戦火から守ろうとする動きが高まった。
こうした文化財を国際的に保全しようとする動きのひとつが、1970年代になり、世界遺産条約として結実する。具体的には、1972年にユネスコの総会で採択され、1975年に批准国が増えたことによって正式に発効した。
日本については、昨今の”世界遺産狂騒曲”ともいえる状況から考えると信じがたいことであるが、この段階では、政府は当該条約にあまり関心を示さず、まだ日本は世界遺産制度に距離を置いていたと考えられる。時代が進み、国民の文化財への理解も高まるとともに、自然環境の保護への意識も増大し、関連法制が整備された結果、徐々に世界遺産条約を締結する素地が生まれていった。
こうして日本でも世界遺産条約を受け入れる準備が整い、当該条約は1992年に国内でも正式に発効することになる。翌年、第一弾となる日本初の世界遺産として、文化遺産は「法隆寺地域の仏教建造物」および「姫路城」、自然遺産については「白神山地」と「屋久島」が登録された。
「世界遺産」に関する日本の認識のズレ
こうした経緯を見ると、世界的には世界遺産という仕組みは遺跡なり自然環境なりを守る仕組みであるのに、日本ではまるで観光振興のように扱われていることに違和感を覚えるかもしれない。その感覚はまったくもって適切で、もともとこのシステムには観光振興という目的はなかった。
ただ、アフリカなどで世界遺産に登録された場所に、多くの観光客が集まる様子は幅広く確認されており、途上国が経済目的にために世界遺産の登録を欲しがっているという点は押さえておきたい。日本政府が世界遺産条約の締結を検討する際に、そうした国際的な流れを知らなかったとは思えず、世界遺産登録後にどう活用するのかというレベルまで想定したうえで、1990年代はじめに世界遺産の仕組みに参加したと推察される。
われわれ日本人は、「世界遺産」というと、登録されることで観光地化されると思っているフシがあるが、世界遺産というシステムの制度趣旨は、実はかなり異なっている。
世界遺産の仕組みは、それに登録することで、開発や消費による傷みから当該遺産を守ろうとするところに眼目があり、また、世界遺産に登録されると、建造物に関しては改築が厳しく規制されるため、観光利用の自由度は実はかなり制限されてしまう。要するに、世界遺産に関しては、「保護」が制度の目的の中核をなす。
また、世界遺産として登録される基準として不可欠の、将来に残す「普遍的価値」としては、教訓を含んでいたほうが一般論としても有益なわけで、21世紀になってからは世界遺産登録にあたっては、一段と人類史のダークサイドを意識した検討がなされていると言ってよい。
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