ダイエー創業家「中内潤」がいま語る父、大学、教育 流通科学大が就職率に拘らず学生に向き合う訳

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ダイエー創業者、中内功(正式表記:力→刀)氏の長男であり流通科学大学理事長の中内潤氏(左、正式表記:王→玉)と流通科学大学特任教授の長田貴仁氏(左写真:流通科学大学、右写真撮影:ヒラオカスタジオ)
来年2022年8月2日は、ダイエー創業者・中内功(正式表記:力→刀)氏の生誕100年に当たる。
中内氏はフィリピンの激戦地で生死の境をさまよい、終戦後、神戸の焼け跡から商売を始めた。1972年にダイエーは売上高で三越を抜き「流通王」の座をものにしたが、バブルの崩壊、阪神・淡路大震災のあおりも受け、積極的な多角化が裏目に出た。2015年1月よりイオングループ傘下となり、多くのものを失った。
が、日本経営史に刻まれた「流通業界の革命児」と言われた生きざまと、1988年に創設した流通科学大学(神戸市)は残る。今、長男・中内潤(正式表記:王→玉)氏は同大学理事長として教育改革に取り組んでいる。
ビジネスから教育に活躍の場を移し、苦悩していたダイエー副社長当時とは、まったく違う表情を見せる。近年、マスコミにはめったに登場しなくなった中内潤氏の近況。東洋経済オンライン寄稿者の1人で流通科学大学特任教授の長田貴仁氏を交え、中内功氏生誕100年の節目を前に父子関係の真実、起業家教育にかける意気込み、学生の就職に関する独自の教育方針などについて聞いた。

息子から見た父・中内功の実像

──まず、プライベートな点について教えてください。中内さんにとって、お父さん(ダイエー創業者、流通科学大学創設者の中内功氏)はどういう存在だったのですか。

中内 潤(以下、中内):父とは本当にプライベートで会い、話すことはほとんどなかったですね。子どもの頃を振り返ると、父は家に寝に帰ってきてはいましたが、僕が朝起きたらいないし、寝るときもまだ帰宅していなかった。

土、日曜日も家にいることはまれでした。父は第2次世界大戦中、満州を経てフィリピン・ルソン島リンガエン湾に渡り、大岡昇平さんの戦記小説『野火』で描かれているような激戦の地で生死をさまよいました。

そして終戦後、焼け野原になった神戸で商売を始めました。しかし、高度経済成長時代になっても、父にとって流通の現場は戦場でした。闘い続けていました。家で面と向かって話をすることはなかったのですが、結果的に、闘う男の背中を見せるという無言の教育をしていたように思います。

──高度経済成長期においてはサラリーマンでさえ「企業戦士」と呼ばれていました。スーパーマーケット(GMS)の全国チェーン化という業態を確立し、1972年には売上高で三越を抜いた。その8年後に、中内さんはダイエーに入社したのですね。

中内:私は大学院を卒業して25歳でダイエーに入り、三宮店の青果売り場からキャリアをスタートしました。

長田 貴仁(以下、長田):その頃からお父さんとの関係に変化は生じましたか。今、中内さんは功氏に対して「父」と言う言葉を使っていますが、普段は、「ボスは……」と言っています。

中内:「ボス」という呼称は、単に便利だから使っていたというところもあります。なぜなら、ダイエー代表取締役社長だけでなく、子会社の社長、経団連副会長をはじめとする外部団体の役職名など、肩書がどんどん増えていくので、ケースバイケースで呼称を変えるのが不便になっていました。ですから、僕だけでなく、ダイエー社内の人は皆、「ボス」と呼んでいました。

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