ダイエー創業家「中内潤」がいま語る父、大学、教育 流通科学大が就職率に拘らず学生に向き合う訳
息子から見た父・中内功の実像
──まず、プライベートな点について教えてください。中内さんにとって、お父さん(ダイエー創業者、流通科学大学創設者の中内功氏)はどういう存在だったのですか。
中内 潤(以下、中内):父とは本当にプライベートで会い、話すことはほとんどなかったですね。子どもの頃を振り返ると、父は家に寝に帰ってきてはいましたが、僕が朝起きたらいないし、寝るときもまだ帰宅していなかった。
土、日曜日も家にいることはまれでした。父は第2次世界大戦中、満州を経てフィリピン・ルソン島リンガエン湾に渡り、大岡昇平さんの戦記小説『野火』で描かれているような激戦の地で生死をさまよいました。
そして終戦後、焼け野原になった神戸で商売を始めました。しかし、高度経済成長時代になっても、父にとって流通の現場は戦場でした。闘い続けていました。家で面と向かって話をすることはなかったのですが、結果的に、闘う男の背中を見せるという無言の教育をしていたように思います。
──高度経済成長期においてはサラリーマンでさえ「企業戦士」と呼ばれていました。スーパーマーケット(GMS)の全国チェーン化という業態を確立し、1972年には売上高で三越を抜いた。その8年後に、中内さんはダイエーに入社したのですね。
中内:私は大学院を卒業して25歳でダイエーに入り、三宮店の青果売り場からキャリアをスタートしました。
長田 貴仁(以下、長田):その頃からお父さんとの関係に変化は生じましたか。今、中内さんは功氏に対して「父」と言う言葉を使っていますが、普段は、「ボスは……」と言っています。
中内:「ボス」という呼称は、単に便利だから使っていたというところもあります。なぜなら、ダイエー代表取締役社長だけでなく、子会社の社長、経団連副会長をはじめとする外部団体の役職名など、肩書がどんどん増えていくので、ケースバイケースで呼称を変えるのが不便になっていました。ですから、僕だけでなく、ダイエー社内の人は皆、「ボス」と呼んでいました。