「島耕作」作者が説く50代から人生を楽しむ方法 「小欲」は楽しく生きるための"万能薬"となる

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「せきをしても一人」という句を残した俳人・尾崎放哉は、東大法学部卒のエリートだったから大企業に就職してたちまち出世した。

けれども放哉は自由を求めて会社を捨て、孤独を求めて妻を捨てた。それによって放哉は漂泊の人生を手に入れたが、現実には食うや食わずの生活だった。

結核に栄養失調がたたってガリガリにやせ、孤独のままに41歳で死んだ。

カネも食べ物もない生活を受け入れる気になれば、人間は一切のものを捨ててしまって放哉のような漂泊の人生を送ることができる。

でも、そういう人生はかなり恐ろしい。放哉に憧れる男は大勢いるが、誰も放哉のように生きられないのは、カネも住処も食べ物もない暮らしが恐ろしいからだ。仕事を辞めて家族を捨てればいいだけなのだから、実行はたやすい。ただし、憧れと実行の間には超せそうもない暗渠がある。

無欲になれば「無数の楽しみ」を見いだせる

晩年の放哉は、「すき焼きで一杯やって死にたい」と願った。ぼくから見れば「小欲」だが、物乞いで生きる放哉にとっては自力ではかなえられない夢だ。

けれども、放哉の生き方を考えたとき、人間というのはすべて捨ててしまえば「小欲」を無上の楽しみとして生きることができるんだなあとわかってくる。

自分がどこまで無欲になれるかで、何気ない日々の営みに無数の楽しみを見いだせるかどうかが決まってくる。

ぼくらは放哉のように生きることはできないが、せめてどんな現実の中にも諦めや無念や不快さではなく、楽しさを見いだせる男でありたい。

不遇なら不遇で、それに埋もれてくすぶるような男ではなく、カラカラと笑って身の回りを楽しめる男でありたい。

そのときまず大切なのは、「カネさえあれば」という次元でものごとを考えないということだろう。「カネさえあれば」と考えるとき、自分が向き合う現実は色あせたものになる。カネがないのだから、さまざまなことを我慢するしかないとはわかっていても、弾んでくる気持ちにはとてもなれない。

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