私は30代のとき、藤井幸男さんという、12歳年上の腕のいい旋盤工に出会いました。単に手先が器用なだけでなく、段取りをする能力が優れている。どういう道具をどう工夫して使えばうまくいくということを知り尽くしているのです。
小学校しか出ていませんが、戦前に徒弟制度の下で旋盤工になり、海軍では機関兵、戦後しばらくは九州で炭坑夫をしていたという、人生経験豊かな男気あふれる人です。この人に負けたくないという競争心から、学ぶことに貪欲になりました。
私は不器用なので、手先ではかないません。だから工夫することで勝負しようと思い、毎日の仕事の記録をつけ始めました。新しい仕事が来るたびに図面と加工法をノートに記し、うまくいった、失敗したといったことを書き留めていったのです。すると、後で同じような注文が来たときに確認でき、もっとうまく工夫できるようになったのです。
ノートをつけ続けたおかげで成長できた
そうして一生懸命工夫して、藤井さんに「俺、こんなこと考えついちゃった」と言うと、「おお、いいな。よく気が付いたな」と褒めてくれる。しかし、その後で必ず「そういえば、どっかの工場でそんなの見たな。誰かがやってたよ」と付け足すんです。
それでわかってきました。明治以降、町工場の現場では、職人という人たちが、こうしたものすごい工夫を積み重ねてきたのだ、と。
藤井さんと隣り合わせで働いた約10年、ノートをつけ続けたおかげで私は成長できたと思います。旋盤で鋼(はがね)を削ることの奥深さがわかり、苦痛にすぎなかった仕事がどんどん面白くなっていきました。
そして鋼が見えてきたとき、人も見えてきました。職人さんたちの姿が見えてきたのです。その頃から文章も書けるようになりました。私は高校を出てから同人誌などで町工場の暮らしを書いていました。
それまでは、職人という人たちは、口が重く煮え切らず面白くない人たちだと感じていましたが、そうではないことがわかってきたのです。その後に職人を描いた小説は、4度も直木賞や芥川賞の候補になりました。
見えなかったものが見えるようになったのは、藤井さんと並んで仕事をしたおかげだと思っています。藤井さんは私にとっての大恩人です。彼は70歳まで旋盤工を続けていたので、私も70までやろうという思いがありました。
しかし、69歳と4ヶ月のとき、勤めている工場が潰れてしまい、現場を去らざるをえませんでした。藤井さんにはなかなか追いつくことができませんね。
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