坂本龍馬も驚いた将軍「徳川慶喜の剛腕」と副作用 名だたる幕末の志士たちをやきもきさせた
慶応3年8月、慶喜が幕臣として取り立てた、側近中の側近である原市之進が暗殺されてしまう。
もちろん、暗殺は十分警戒しており、原はもちろん、側近の梅沢孫太郎や老中の板倉勝静にも護衛をつけていた。だが、原を襲ったのは、あろうことか、幕府内の攘夷派の刺客である。原は結髪中に背後から襲われて、首をもがれて殺害された。
慶喜は、原には密かに「幕府はもう持たない」と将軍就任前に思いを打ち明けていた(第6回参照)。それほど信用できる相手が殺されてしまったのである。慶喜の衝撃も相当なものだっただろう。
調停役を買って出た山内容堂と後藤象二郎
「このままでは日本は内乱状態に陥ってしまう」
そんな危機感を持って、幕府と薩摩をはじめとした倒幕派との間に立ち、調停役を買って出た人物がいた。土佐藩の山内容堂と後藤象二郎である。
慶応3年10月3日、後藤は山内の信任を受けて、坂本龍馬が立案したとされる「船中八策」をもとにした建白書を幕府に提出する。「船中八策」の一項目には、こう綴られていた。
「日本の政権を朝廷に奉還し、政令はみな一本化して朝廷から出す」
天下の政権を朝廷に返す――大政奉還である。政権を手放すなど、誰もが躊躇するだろうと思われたが、慶喜の行動はいつも斜め上をいく。なにしろ、慶喜はまだ家茂の将軍後見職だったころに、秘めていた開国論を打ち明けて、さらにこう続けていたのだ。
「今、自分がこのような意見を立てるのは、すでに幕府をないものと見て、日本全国のためを謀ろうとするからだ」
徳川家の人間にもかかわらず、いや徳川家の人間だからこそ、誰よりも早く幕府を見切っていた慶喜。慶応3年10月14日、時代は大きく動く。大方の予想に反し、慶喜はあっさりと大政奉還に踏み切ったのである。
(第9回につづく)
【参考文献】
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜将軍家の明治維新増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)
藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波新書)
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