坂本龍馬も驚いた将軍「徳川慶喜の剛腕」と副作用 名だたる幕末の志士たちをやきもきさせた
人事もちぐはぐ感が否めなかった。慶喜は、第二次長州征伐で敗戦責任を問われて老中を罷免された小笠原長行を、本人が拒んでいるにもかかわらず、老中に再任させた。小笠原は対外交渉の経験が豊かだったためである。慶応3年6月には、小笠原を外国事務総裁に任じて重用した。
長州問題を軽視しだした慶喜を見て、それならば、と会津藩の松平容保は、孝明天皇の国喪が明けるのを待ち、慶応3年2月の時点で、「京都守護職を辞任したい」と申し出ている。だが、慶喜は老中を通して「しばらく兵は解くが、長州への処置を誤ることはない」と容保を説得して、辞任させなかった。
その後も、容保の帰藩については、幕府が4月の段階で認めたのに、結局は理由をつけて京都に容保を縛りつけ、帰藩を許さなかった。長州どころか薩摩まで完全に敵に回してしまい、会津の兵が必要だったからだ。
また、京を守る新選組も、容保が支配する治安部隊として結成されたものである。ここで、容保に帰藩されてしまうわけにはいかなかった。
このときに慶喜に依存されたことで、会津藩は立場的に薩摩藩、長州藩の怒りを買ってしまう。のちに会津戦争という悲劇を引き起こす遠因となるが、孤立が深まるばかりの慶喜に、そこまでの見通しも余裕もなかった。
民衆が「ええじゃないか」と暴走
そんな不安定な政情の中、民衆たちが暴走し始める。伊勢神宮の御札や雑多な神札神像が空から舞ったことを契機に「ええじゃないか、ええじゃないか」と群れをなして、村や町を踊り歩き始めたのだ。
それが東西へと伝播していき、西は伊勢、京都、大阪、兵庫、淡路、阿波、讃岐、そして東は信州、江戸へと広がっていく。俗にいう「ええじゃないか騒動」である。
歌は各地によって異なるが、中には、薩摩と長州の台頭を歓迎するようなものもあった。
「長州さんの御登り、ええじゃないか、長と薩と、ええじゃないか」
足元の支持基盤はグラグラで、民衆は「ええじゃないか」と踊り狂い、各地で破壊活動を行う――。そんな状況下、さらなる悲劇が慶喜を襲った。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら