坂本龍馬も驚いた将軍「徳川慶喜の剛腕」と副作用 名だたる幕末の志士たちをやきもきさせた
そんな慶喜の勢いは、最大の後ろ盾である孝明天皇が急死したことで、失速するかに見えたが、それさえも逆手にとった。
これまで慶喜は大の外国嫌いの孝明天皇に遠慮して、攘夷に明確な反対を示さなかった。父・斉昭があれだけ頑固に攘夷を貫いたにもかかわらず、いや、父がそうだったからこそ、慶喜は明快な開国思想を胸に秘めていたが、それを公にはできなかったのである。
もはや父も孝明天皇も、すでにこの世を去った。もう誰にも遠慮することはない。慶喜は4カ国の公使に、兵庫開港を確約。開国派の指導者として、その存在感を露わにした。
薩摩の策略を上手にかわした
慶喜の独断に焦り、憤ったのは薩摩だ。薩摩藩の国父、島津久光に対して、参謀の大久保利通はこんな奏上を行っている。
「討幕準備は進んでいる。居丈高に圧倒すべし」
久光のほか、山内豊信、伊達宗城、松平慶永らがそろう四侯会議で「慶喜とケンカしてきてください」と、大久保は念を押したのである。よほど久光がちゃんとやれるか心配だったのだろう。大久保と西郷は、慶喜をどう追い詰めるかのシナリオも、久光に建言書として4通も送っている。
大久保たちの作戦は、簡単にいえばこうだ。長州の処分について幕府に寛大な処置を訴え、長州征伐が誤りだったことを認めさせる。そのうえで、慶喜が独断で進めた兵庫開港問題での幕府の対応を責め立て、外交権を朝廷に移管し天皇中心の体制を目指すべきだ、と追い込もうと考えたのだ。
だが、慶応3(1867)年5月、四侯会議がいざ開かれると、慶喜は久光の要求をすべて上手にかわしていく。「長州問題を先に片付けるべき」という久光の言い分は「長州の処分は内政の問題でいつでも処置できる」として受け流しながら「幕府は寛大に処分するつもりだ」とあっさり引いて、肩透かしを食らわした。
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