結婚歴40年の私の友人・愛子さんは数十年間、自分の稼ぎだけで生活したことに夫の誠意が感じられず、その「優しさ」は「愛」ではないと「気づいた」そうです。3人の子供も自分ひとりの稼ぎで育てました。
愛子さんはずっと離婚話を持ちかけてきたそうですが、愛子さんが激高しようが理詰めで話そうが、何せ相手は「優しい」性格です。離婚話に乗る積極性も持たず、まさに糠に釘を打つようで話し合いに乗ってきません。愛子さんは半ばノイローゼぎみです。
ほかにも「優しさ」と「愛」の違いに気づき、頭を下げて夫に出て行ってもらった人の話など、例には事欠きません。私が、責任を伴わない愛は愛ではないと考えるようになったのは、以上のようないきさつによるもので、確信すら持っています。
「愛すること」と「愛の魔法にかかる」ことの違い
ひろみ様、あなたの彼は上記の2人とは少し違うと、気分を害されたでしょうか? 私は彼がやっていることは、上記の2人よりひどいと思います。もちろん比較することに意味はありませんが。
良本を紹介させていただきますが、森村桂さんの『それでも朝はくる』という本は、今でも入手できるでしょうか。彼女が「雪男を探し続ける最初の夫」と別れるいきさつを書いています。桂さんの稼ぎで生活するようになっても、彼は高飛車で彼女を振り回します。彼女はそれでも愛している、別れたくないと服が泳ぐほどガリガリにやせながら、なお夫婦を続けたいと死ぬほど悩み続けました。
桂さんは、あまりにひどい彼のわがままに、ある日、突如、目覚めるのです。「これは愛ではない。私は愛という魔法にかかっていただけだ」と。彼女は魔法を自分で解いてすぐに離婚しました。
ひろみ様、あなたはまだ彼を愛していると思っておられるようですが、魔法ではありませんか? 「家事・育児を積極的に手伝ってくれる」と喜んでおられますが、彼はあなたに養ってもらっていて、それは当たり前です。今は、元総理大臣の現役時代だって、食後の皿洗いは自分の役目だと言っておられる時代なのです。
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