一見ムダな仕事がカフェを繁盛店にした理由 無意識に訴えかけるシグナリングの強力な魔力
前にも言ったように、カフェはにぎやかな通りにあった──実際、運転に集中している人なら、店があることがすぐにはわからないだろう。「コーヒー」と書いてある看板を見つけたとしても、店の外に誰も座っていなければ、開店しているのかどうかはっきりしない──5分もかけて駐車スペースを見つけたあげく、店が閉まっていると気づくかもしれないのだ。
以前のいつも店外にあったベンチは、店が開いているかどうかを示すものとしては意味がなかった。対照的に、新しい椅子やフェンスはそのまま放置されれば盗まれるか、風に飛ばされるかもしれないので、それがあれば店が開いている保証になった──椅子やテーブルを通りに残したまま、店を閉めて帰ってしまう店主はいない。
「いや、ちょっと待ってくれ」とあなたが言う声が聞こえそうだ。「確かに理論的には正しそうだが、店外の家具が持ち運べるかどうかをもとにして、あるカフェが開いているかどうかを意識的に考えながら、幹線道路を運転している者などいないよ」
ある意味ではあなたの言うとおりだが、人はそんなことを意識的にやっているのではない──本能的にやっているのだ。そういう判断をするために思考プロセスを用いている。それは自覚している意識の範囲外で行われているのだ。
人はどこへ行くときでも、自分がそうしているとは少しも気づかずに、環境を手がかりとして無意識に推論を導き出している──それは自分が考えているとも思わない思考なのである。
脳は限られた情報で無難な判断をする
このような思考プロセスは、従来のロジカルなものというよりは心理(サイコ)ロジカルなもので、人が意識的な理由づけをするときに適用するのとは違うルールに頼っている。だが、脳が進化してきた状況を考えると、必ずしも不合理でもない。人の脳は数学的な正確さを用いながら完璧な決定をするように進化したのではないのだ──アフリカのサバンナでそんなものはあまり必要ではなかった。数字ではなく、偽物もあるかもしれない限られた情報に基づいて、破滅的ではない、かなりよい決断にたどり着く能力が発達したのだ。
不合理どころか、われわれがカフェの外にある椅子を見ただけで引き出せる推測は驚くほど賢いものである。いったん、そういった推論の裏にある論理的思考を理解したら、そのすごさがわかるだろう。
「営業中」と書かれた看板は無意味かもしれない。「休業中」と書かれた面にひっくり返すのを忘れただけかもしれないのだから。どっちにしろ、車からは看板が読みにくいだろう。「営業中」と書かれたネオンサインのほうが信頼できそうだ。電気を節約するため、店を閉めて帰る人は電源を切るだろうから。
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