父の手伝いで14歳のときに始めた藍玉の買い付けでは、製造者をランク付けし、競争心をあおる試みを取り入れるなど、早くから商才を発揮していた渋沢(第1回)。多感な青年期に従兄弟の尾高惇忠やその弟・長七郎、渋沢喜作(成一郎)と出会い、攘夷思想に染まっていく(第2回)。「国を救うには外国を打ち払うしかない」と、高崎城の襲撃と横浜の焼き討ちを計画するが、頓挫(第3回)した。
並々ならぬ金融事業への意欲
大蔵省を去る道を選んだ渋沢栄一。これまでも何度となく、行く当てがなくなることはあった。そのたびに「これからどうするべきか」を考えあぐねたものだが、このときばかりは違った。明治維新による近代化の流れのなかで、渋沢の実績と経験を考えれば、活躍の場は無限にあったといってよいだろう。
渋沢自身もさまざまな事業に関心があったが、中でも金融事業への意欲は並々ならぬものがあった。渋沢は大蔵省時代に国立銀行条例の制定に携わっており、退官したのは、条例が公布されて間もない時期だった。
そのため、辞職後すぐに、銀行設立を考えていた三井の大番頭、三野村利左衛門や小野組の小野善右衛門らから声をかけられている。
「ご辞職なさったのはお気の毒であるけれども、それを幸いに一つ銀行を世話してくれまいか」
渋沢としても拒む理由はなかったが、大蔵省で世話になった井上馨と大隈重信に、自分の進路としてふさわしいかどうかを相談している。大久保とは反りが合わなかった渋沢にとって、二人の傑物は特別な存在だった。


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら