イトマン事件から30年、スクープ記者語る悔恨 裏社会に多額の金が流れた巨大経済事件の顛末
この頃僕は、もう余計なことをせず、証券部デスクの職務を続け、傍観者としてサラリーマン記者生活を終えればいいのだと思っていました。これまで、自分の手掛けた仕事にそれなりの達成感があったからです。
しかし、それから半年後の1993年春のことです。僕は証券部から経済部に戻ることになったのです。デスクとしての証券部在籍は2年でした。金融機関の不良債権問題が喫緊の課題になるのが見えていましたから、その担当を僕にやらせようという魂胆だったんでしょう。
打診を受けた時、少し迷いましたが、異動を了解しました。「経済部の体面のために仕事をするのは金輪際いやだ」という気持ちも強かったんですが、1つの誘惑に負けました。
三菱銀行と東京銀行の合併をスクープしたかった
記者生活20年間で、僕はスクープ記事を何本か書いていますが、すべて経営危機に陥った大企業の処理をめぐるニュースで、まあ、後ろ向きの案件でした。1つくらいは前向きのニュースもモノにして記者生活を終えたいな、という気持もくすぶり続けていました。
僕の提案で動き出した三菱銀行と東京銀行の合併交渉は、途切れることなく続いていました。最後に、このネタでスクープしたかったんですね。でも、証券部にそのまま残っていたのではイトマン事件以上に手掛けるのが至難の業でした。
予想した通り、経済部では、不良債権問題をはじめ金融機関をめぐる案件のすべてを取り仕切る責任者という立場になりました。最初の1年間は編集委員、あとの4年間は次長(デスク)という肩書でしたが、その立場は変わりませんでした。僕は、自らの担当する案件として三菱・東京の合併交渉をフォローし続けることができたのです。
経済部に復帰した時点、つまり1993年春の段階でも、金融機関の〝旧悪〟には目をつむって救済しない限り、金融恐慌が起きるのは時間の問題だという僕の確信に変わりはありませんでした。いや、変わらないどころか、ますますその危機感は強くなっていました。
僕は、日経新聞の紙面で、宮澤首相の撤回した「金融機関への公的資金投入」構想を早急に実行しなければ、日本経済は壊滅的な打撃を受ける、とキャンペーンを展開すべく動くことができる立場になったんです。でも、僕は動かなかった。いや、動けなかったんです。
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