イトマン事件から30年、スクープ記者語る悔恨 裏社会に多額の金が流れた巨大経済事件の顛末

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初公判のあった1991年12月19日、僕は、企業業績、増資や社債の発行などの財務戦略の情報を載せる紙面の担当で、原則的に午後2時頃から翌日の午前2時頃までデスク席に座っていることになっている仕事の当番でした。

証券部デスクのメインの仕事でしたが、実際は夕方から席に座っていればよく、午後3時頃までは旧知の取材相手と会ったりしていました。原稿が出てくるのは午後6時以降でしたから、それまでは席外しも可能でした。

初公判は午前中に始まっていましたが、午前中は被告3人の罪状認否でした。検察の冒頭陳述は午後の公判で行われ、その中身は夕刊には載っていませんでした。デスク席に座って、2時間ほど経った午後5時過ぎです。東京の編集局内に「検察が冒頭陳述で小早川被告が日経社内の協力者に1000万円を渡したと明かした」の情報が流れ、僕の耳にも入りました。

イトマン事件は自分が口火を切った案件ですから、手を引いた後の1年あまりも関連情報には他のデスクや記者よりも目配りしていたので、状況はある程度わかっていました。でも、この段階ではどんな中身なのかよくわからず、それほど気にも留めませんでした。

最初に頭に浮かんだのは防弾チョッキ

午後6時から朝刊の編集会議があり、その後、僕のところにも冒頭陳述の関連部分のコピーが回ってきました。紙面に載せる原稿を見るのは午後7時過ぎからなので、コピーを斜め読みしたのです。

そこには、被告たちがマスコミ対策としてどんなことをやったのか説明しており、第1報の5月24日の朝刊記事、第2報の9月16日朝刊の記事を取り上げて、「日経新聞社内の協力者にイトマンに関する記事の執筆者、ニュースソースを探るように依頼し、10月9日頃、右協力者に対して、報酬として……現金1000万円を支払った」と書かれていました。

それで、自分自身が「標的」だとわかったんですが、最初に頭に浮かんだのが防弾チョッキでした。

約1年半前に國重さんが防弾チョッキを着て打ち合わせにやってきて、僕にも買わないかと勧められました。僕は、そこまでしなくてもいいだろうと思って断ったわけですが、その認識は甘かったと痛感したんです。そして、自分が日本を不在にする時期を選んで載せる作戦は正解だったとも思いました。

冒頭陳述が取り上げたイトマンのマスコミ対策には、日経だけでなく、金を使って『週刊新潮』に特集記事(1990年10月4日発売の10月11日号「『住友銀行』『伊藤萬』心中未遂の後始末」)の掲載を見送らせようとしたり、経済誌『経済界』の佐藤正忠主幹に2億円出して、7月から8月に2回、河村社長の提灯記事(「企画管理本部の新設は河村・イトマンの起爆剤となるか」と「伊藤寿永光、雅叙園観光問題で独占告白」)を載せたりしたことも書かれていました。

僕の場合は、この2つのケースと違って、僕自身とそのニュースソースを調べることだけに金を使っているんです。次の一手も念頭にあった可能性も否定できないでしょう。でも、彼らが情報入手して金を払った時、僕は海外出張中だった。タイミングがよかったなと感じましたね。

次ページバブルに風穴を開けるのが目的だった
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