イトマン事件から30年、スクープ記者語る悔恨 裏社会に多額の金が流れた巨大経済事件の顛末
日本経済新聞1990年9月16日の「伊藤萬グループ不動産業などへの貸付金、1兆円を超す 住銀、資産内容の調査急ぐ」という3段の記事が、戦後最大の経済事件と言われたイトマン事件勃発の狼煙となり、イトマンの膿が次々と世の中にさらけ出された。
イトマン側は記者の情報を1000万円で収集していた
――大塚さんに聞いておきたいことがあります。特別背任容疑などで逮捕された河村良彦、伊藤寿永光、許永中の3被告に対する初公判が1991年12月19日に開かれました。
大阪地検特捜部は、その冒頭陳述のなかで、関連事件で逮捕した不動産開発会社社長だった小早川茂被告が「日経新聞内の協力者に現金1000万円を支払って記事執筆記者の情報を収集した」と明かしました。大塚さんがどのようにしてその情報を知り、どう受け止めたのか。大塚さんがイトマン報道から離れて1年2カ月あまり経っています。
大塚:そうですね。実は、入社年次で順送りする日経の年功序列人事で、僕は1991年3月に次長(デスク)か、編集委員に昇格して、記者クラブに所属する取材の現場を離れることがほぼ確実でした。つまり、毎日の紙面製作に携わるか(次長)、過去の経験を生かしてニュースの解説などを書く立場(編集委員)になるわけです。
僕は証券部に7年、その後、経済部に9年在籍していたので、順当なら経済部で昇格したのでしょうが、古巣の証券部に戻って次長になりました。
「書かずの大塚」でしたから、編集委員でなく次長を希望していました。次長はローテンション職場で、記事を書くというオブリゲーションなしに、これまで通り旧知の取材相手と懇談したり、会食したりできると考えたからです。いずれにせよ、1991年3月から証券部次長として、企業財務やマーケット情報を載せる紙面の製作の仕事をしていました。
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