海なし県でも山梨が「マグロ」消費額2位のナゾ あの名将・武田信玄も好んで食べていた??
とはいえ、今みたいに高速の流通手段、冷蔵・冷凍技術が発達していなかった江戸時代において、海産物の内地への輸送手段は、馬の背に荷を載せて陸路を行くか、川をさかのぼっていく舟運のどちらかだった。
ただし舟運は富士川が急流のため時間がかかることから、干物類や加工品はあったが、生魚の運搬はもっぱら陸運だった。ルートは沼津にほど近い吉原(静岡県富士市)を出て富士山の西麓を通って甲府に至る中道往還や、沼津から御殿場を通り、御坂峠を越える鎌倉往還などである。
当時の運搬について『甲斐廼手振』(嘉永3年=1850年)の中に興味深い記述が紹介されている。
<魚類はすべて駿河沼津より三坂峠(※御坂峠のことか)を越え黒駒道運送、行程二十里>
<秋冬春は替らず、なかんずく鯛多く、江戸よりは価至って下直なり。夏向きは塩物多し。其内塩まぐろ、煮貝、塩貝はいずれも駄荷にて来る>(※馬に荷を追わせて運んだ)
甲府は四季を通じて生魚を持ち込める限界である「魚尻点」にあたっていた。沼津からは一晩で海産物を運べたという。
慶応2年(1866年)の『甲州道中記』には、こんな記述もある。
<駿州沼津にて漁をなす肴を甲州へ送る道のり二拾里余なり。沼津より半日一夜にて馬にて送るなり。肴荷五十疋百疋と馬に肴を付て来る、馬方は多く女なり、富士の横手籠坂峠を越え来る、(略)道にて狼出る時馬恐れて人間の袖の処へ馬顔を付るなり、其時から鉄砲をはなって通る、富士郡籠坂峠は大の難所のよし承り候>
生魚を運搬する馬を引いていた多くは女性
生魚を運搬する馬を引いていた多くが女性だったという事実にはビックリだ。しかも狼が多く、鉄砲で追い払っていたとは。まさに命がけである。明治になると中道往還を利用して、その日獲れた魚を馬に背負わせて午後4時に吉原を出て、翌朝7時ごろには甲府の魚問屋に荷をおろす、といった文献の記述もある。
マグロに関しては駿河湾でのマグロ漁を描いた1枚の絵が有名だ。『天保三年伊豆紀行画帖』の中の「長浜村漁猟場の景」(木村喜繁:1832年)である。
駿河湾で船と網でマグロの群れを浜に追い込み、漁師が手鉤でマグロを引っ掛けている漁の様子を描いたもので、残された記録には<此処へは江戸ならびに駿府甲州より魚商ふもの参り居て……>と、甲州の魚商人も買い付けに訪れている様子が記述されている。
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