海なし県でも山梨が「マグロ」消費額2位のナゾ あの名将・武田信玄も好んで食べていた??
山梨県とすし店の関係に入る前に、関連データをご覧いただきたい。
※アサリ消費金額2位(年間=甲府市):1055円(1位は静岡市の1135円)
※すし(外食)消費金額 4位(年間=甲府市):1万9900円(1位は金沢市の2万3387円)
これらは総務省家計調査(2人以上の世帯)の2017~2019年平均の数値で、政令市と都道府県庁所在地を対象としたものである。すしの外食の全国平均は1万4885円だから、約5000円も上回っている。
いかに山梨の人たちが「すし」と「マグロ」を愛しているかを如実に物語っている。江戸時代から「マグロはごちそうとしてハレの日の食卓に上がり、現在まで山梨県のごちそうとして不動の地位を守り抜いています」(甲州市のHP)という土地柄なのである。
筆者は昨年12月、湯村温泉(甲府市)の老舗ホテルで、マグロのおもてなし文化を実感した。食前酒、前菜、先附のあとにホテル名物の本生まぐろがお目見えした。造りは中トロ3切れと大トロの炙り2切れ、そして中トロの握りが2貫。
甘く、口の中でとろけていく絶品のマグロだった。献立表によると「長崎五島列島で水揚げしてすぐに空輸した鮪です」とある。
力の入れ方が半端ではない。
江戸時代からすし・マグロ文化が広がる
海なし県の山梨県にすし文化、マグロ消費が広まったのは江戸時代からである。武田氏滅亡後、16世紀後半に甲府城ができ、その城下町には魚町と呼ばれる一画があった。
『甲府市史研究 第9号』に掲載されている論文によると、貞享3年(1686年)には、魚町三丁目伊右衛門ら5人の「肴問屋」の名前が記載されている。江戸時代後期に書かれた文献には「鮪 壱本ニ付 代拾貫文」といった記述もある。江戸時代において、魚町で魚を扱う店で駿河・沼津から運んできたマグロが売られていたことがわかる。
甲府の城下町ですし文化を広めたのは「甲府勤番」の存在だと言われている。享保9年(1724年)に幕府直轄領となった甲府に、江戸から約200人の勤番士(城の警備などに当たる職務)が赴任した。
江戸で活躍できなかった次男や三男が多かったという。そんな彼らが勤番士として赴任した甲府の町で、江戸で食べていたすしを食べたいということで、駿河から馬の背に載せてマグロが盛んに運ばれるようになり、すし文化が広まったという。
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