ゴルフのクラブについても詳しい。ドライバーの当たり角度、初速などの分析や、アイアンの使い方、新しいボールの飛びの解析をするなど、現在のような計測機器がない中で感心する。
当時は、クラブのシャフトはヒッコリーという堅い柿の木を使っていたが、スチールシャフトが入ってきて、論争が起こっている。今でいうと、ドライバーのヘッドがヒッコリーから金属に替わってきた1980~90年代に似ている。
日本で初めて「ゴルフ税」が課せられることに憤慨する記事もあった。福岡県がゴルフ場の会員は「裕福だ」として、1930年から年20円の税金をかける決定をした。そのことについて「もってのほか」「スポーツは健康増進に必要なのに課税することは健康増進を阻害する」と手厳しい。このゴルフ税が現在の「ゴルフ場利用税」につながり、ゴルファーへの消費税との二重課税となっている。
なお、1920~30年代の貨幣価値については諸説あるが、公共料金を現在と比較してみると、封書3銭→84円、鉄道(最低料金)5銭→140円(JR東日本の切符利用時)などで、1円(=100銭)は現在の2000~3000円ぐらいだろうか。
「傷害保険」ができたという記事も
1931年の記事には、ゴルファーのプレーに対する「傷害保険」ができたことが書かれている。1口年75銭の掛け金で傷害の程度などによって最大1000円の保険金を得られる。これは本人が傷害を負った場合、他人に傷害を負わせた場合の補償が入っている。
当時のゴルフ人口は詳しい記録はないが、2万人ほどと推定できる記述がある。神戸GCや横屋GAができたころは少数の外国人中心だったが、日本人ゴルファーが増えてきて、打球事故も起こり始めていたのだろう。
こうして見てみると、福井がプロゴルファー第1号になってすぐに、今のゴルフ業界が形になり始めたといえる。
第2次世界大戦、太平洋戦争に突入していく1941年に気になる記事があった。「ゴルフの将来について」というコラムで、ゴルフが大衆スポーツの中で「王座」となるためにやるべきことを提案している。「既存のコースのある程度の公開」「大衆が自由にプレーできるゴルフ場の建設」「プレーの簡易化。クラブ本数を5本にしてキャディーをなくして経費を節減する」としている。
メンバーシップのゴルフ場をビジターにより多くのプレー機会をもってもらう、パブリック(公営)コースを増加させる、プレー費の低価格化など、これまでこのコラムでも指摘してきたゴルフをするハードルを下げる方策は、80年前にも考えられていた。
80年たっても同じことがゴルフの大衆化を妨げているように思える。ピークでは1000万人を超えたが、ビジネス利用が主体だったこともあって大衆化とはいえない形に日本のゴルフは進んだ。ゴルフ人口は右肩下がりになっている現在、再び増やしていくためには先人の提言に耳を傾けたい部分もある。
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