母親はもともとうつっぽいところがあったが、とくに父親とけんかをした後など不機嫌になると、「あんたなんか本当は産みたくなかったんだ」「みったくない子(北海道弁で可愛くない)」「お母さんの言うとおりに生きていたら間違いないんだよ」など、怒鳴るでもなく、淡々とした口調で、自己肯定感をそぐような言葉や態度を延々と続けるのだ。
あるとき田中さんは、『母が重い!』という本を見つけて、「うちの母はこれだったんだ!」と思った。
すぐに田中さんは、カウンセリングや自助会など、母との付き合い方や自身の苦しみを解決する方法を探し回ったが、結局納得できる解決法は見つからなかった。
母親がパーキンソン病に
高校2年の秋。父親の会社の経理を任されていた母親が、いつものようにそろばんをはじいていると、時折「手に力が入らない」と言うようになり、ボールペンを持つ手も震えることから、脳の疾患を疑った。
父親が病院へ連れていくと、母親は若年性パーキンソン病と診断される。まだ50代だった。
帰宅した父親は、田中さんに言った。
「お前がお母さんの面倒を見るんだよ」
「父にそう言われた瞬間、目の前が真っ暗になりました。自分の将来は母の介護ありきで考えなきゃいけないんだと思うと、絶望的な気持ちになりました。親子の縁を切ってもいいと思うほど母のことが大嫌いで、『母の面倒なんて見たくない!』と言って逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。兄は母からの束縛にうんざりし、家を出て関東の大学に進学していたので、兄だけ家を出る許可を出した両親を恨みました」
当時はまだ、母親の介護のメインは父親で、田中さんは、母親の調子が悪いときや父親の仕事が忙しいときだけ家事をしたり、トイレへ連れていくなどの介助をした。
しかし、田中さんは母親のいる家へ帰るのが嫌で、わざと学校の図書室などで時間をつぶし、帰宅時間を遅くする。すると母親は怒り出し、体調が悪化。これみよがしに自殺未遂を繰り返すため、目が離せない時期もあった。
「電気コードを首にぐるぐる巻きにして首を絞めようとしたり、ハサミをのどにつきつけようとするんです。いずれも未遂ですが、症状がうつっぽくなると、介護とはまったく関係なく、私の姿をなめるようにジロジロ見て、延々と私の外見や性格の欠点をあげ始め、気に入らないことがあると、『あんたのせいで私はパーキンソン病になった!』などと言うのです。介護をすることよりも、母に罵られることのほうがよっぽどつらいと思いました」
田中さんはもともと、父親との仲はよかった。一方、両親の仲はよくなかったにもかかわらず、母親がパーキンソン病になった途端、父親は母親の味方をするようになる。
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